創業以来、独創的な技術でプリンターや時計など数々の分野に革新を起こし続けてきたエプソン。作家・村上 龍の視点で、エプソンの技術に流れる独創性を考察する。(第1回「父の願いと唯一無二のアナログ時計」はこちら、第2回「森を愛する心と、精密技術について」はこちら)
もっとも幸福な食事
教師だった母は、日曜も、日直という勤務で、しょっちゅう学校に行った。わたしは、必ず付いていった。母は職員室で仕事をして、わたしは図書室で本を読んだ。昼、母が声をかけて、ちゃんぽんの出前を取ってくれた。いつも、ちゃんぽんだった。安価だったし、当時は出前のメニューも限られていた。ちゃんぽんを母といっしょに食べる幸福感は、今思うと、特別なものだった。
教師だった母と過ごす時間が少なくて寂しいと、おそらくどこかで、そう感じていたのだと思う。でも、母が働くのは当たり前だと思っていたので、寂しいと訴えることもなかったし、ずっといっしょにいられなくて悪いねなどと、母がそんなことを言うこともなかった。
「おいしかった?」と母が聞き、うなずいて、わたしは図書室に戻る。図書室では、いろいろな本を読んだ。伝記が多かったような記憶もある。あるとき、「キュリー夫人」の伝記を読んだ。小学校低学年にはむずかしくて、科学用語はまったくお手上げだった。だが、キュリー夫人の生涯は、いろいろな意味で衝撃的だった。とくに、夫が事故で亡くなったあとの、悲しみの深さは、心に突き刺さってくるような気がした。
夫の名はピエール。やはり科学者で、夫人とともにノーベル物理学賞を受賞している。そして、彼が、兄とともに、後に「ピエゾ素子」と呼ばれるエレメンツを発見した。
寂しかったけど、本当は寂しくなかった
母との帰り道、キュリー夫人の伝記を読んだことを話した。偉い人やったやろ?そう聞かれて、寂しそうやった、と答えた。幼いころ姉をチフスで亡くし、母親が肺結核で他界し、異国のパリで一人で暮らし、純粋ラジウム塩の精製に成功するが父親の死に立ち会えなかった。ノーベル物理学賞受賞の3年後、夫が亡くなる。わたしは、まだ喪失感という言葉を知らなくて、「寂しい」と表現したのだった。
キュリー夫人の業績は、ジェンダーとしての女性の自立など社会的なものを含め、数え切れない。生活は常に質素で、華美なもの、権力の横暴を嫌った。幾多の喪失感を、研究と発見のエネルギーに変え、国際的に広く尊敬された。
母とともに歩きながら、「キュリー夫人は、寂しかったけど、本当は寂しくなかった」と言い直した。どんな意味?と母に聞かれたが、うまく答えられなかった。
ピエールの発見
伝記では、ピエール・キュリーは、どちらかといえば脇役だった。パリで生まれ、通学が苦手で、14歳まで、医師だった父親、家庭教師、それに兄ジャックから教育を受けた。だが、16歳でパリ大学(ソルボンヌ)に入学、18歳で学士号を取得したが、貧しかったため、すぐには博士課程に進めず、物理研究室の助手として働きはじめた。1880年、同じくパリ大学鉱物学助手の兄ジャックとともに、水晶などの結晶に圧力をかけると電位が発生することを発見した。圧電効果、ピエゾ効果ともいう。ピエールは、21歳だった。正真正銘の天才だったのだ。