織田信長像

(乃至 政彦:歴史家)

武田信玄の「西上作戦」を考える(1)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66465
武田信玄の「西上作戦」を考える(2)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66471
武田信玄の「西上作戦」を考える(3)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66735

隠密裡に移動していた武田信玄

 前回は、離宮八幡宮が、織田信長と武田信玄へほぼ同時期に戦地禁制を要請していた事実を見てきた。

 ここから戦国の諜報戦が見えてくるので、その様子を読み解いていこう。

 信玄の側近と侍医が、戦地禁制の発給を求める離宮八幡宮の使者に「我が軍は京都に戦地禁制を出すことを先送りにしている。だから、せめて我々が近江に進軍するまでお待ち願いたい」という返書を手渡した3月26日の1週間前となる同月19日、信玄は最前線を離脱していた。

 すでに三河を退き、甲斐本国に向けて隠密裡に移動していたのだ。情報源となるのは、織田信長が上杉謙信に送った手紙である。

 手紙はかなりの長文なので、武田の動向に関する一文だけを見てもらおう。

信玄は3月12日に三河から信濃国境へと移動しました。兵士たちにも秘密(「一円隠密」)の様子で、隠れて退去しているようです。諸勢は16日に退散しているらしいと、国の境目にいる人たちが教えてくれました。【※1】(謙信公御書集/『上越市史』1143号)

【※1】「去十二日引散之由候、士卒共ニも一円隠密候而、物紛に退候旨候、諸勢ハ十六日に退散之由、堺目方々より告来候」

 信長は、ここに信玄撤退の速報を書き記している。この状況下で、信長が謙信に虚報を流すとも思えないので、とりあえず得られた情報を即座に伝えたものと見ていいだろう。巧緻は拙速にしかずだろうが、その情報確度は高いと思われる。

 さて、ここで離宮八幡宮の使者が武田軍の要人たちから返書を手渡された時、彼らがどこにいたのかを推定することができる。

 翌月12日、信玄は信濃の駒場で卒去しているので、信長書状から1週間目の3月26日には、まだ信濃にいたことになる。

 ただ、それまで「一円隠密」でいたのだから、彼ら離宮八幡宮の使者は、信濃ではじめて信玄のもとを訪れたのではなく、まだ三河に在陣している時から本陣へ近づき、交渉を許されたあと、信玄側近衆の判断で、隠密の移動に同行することを許されたのだと思われる。そう解釈することで、織田信長の手紙と、離宮八幡宮への返書を整合的に理解できるだろう。

 この時、離宮八幡宮の使者たちが信玄の側にいたことはほぼ間違いない。

 なぜなら離宮八幡宮に返書した文書に、3月26日付で武田家要人の2人が署名しており、その2人はこの事態に主君の側を離れるはずのない信玄の側近(土屋昌続)と信玄の侍医(僥倖軒宗慶)であるからだ。使者が信玄の「諸勢」に同行していたと見て疑いがないだろう。信玄は「士卒」らにも黙って「隠密」に撤退している最中で、これを信長の言うように「堺目方々(信濃と三河の国境にある人々)」の民間人が知り得るとは思われず、武田の旗本も不意の訪問者(京都からの使者)に正体を明かして対応するとは思われないためである。

https://jbpress.ismedia.jp/feature/kenshinetsuzan