遣り過ごしていた日常を俯瞰して見つめ直す。旅の空の下、非日常の世界に遊ぶ——。家族や友人との賑やかなひとときも愉しいけれど、本の世界に一人浸る贅沢な時間も長期休暇の醍醐味。今年のゴールデンウイークにおすすめの6冊を厳選。
選・文=温水ゆかり
「国民的詩人」と「地べたライター」のシンクロニシティ
【概要】
いまここの向こうの「その世」に目を凝らす詩人と、「この世」の地べたから世界を見つめるライターが、1年半にわたり詩と手紙を交わした。東京とブライトン、老いや介護、各々の暮らしを背景に、言葉のほとりで文字を探る。奥村門土(モンドくん)描きおろしイラストを加えての、三世代異種表現コラボレーション。
英国ブライトンを本拠地とする保育士にして作家のブレイディみかこさん。父谷川徹三(哲学者)・多喜子夫妻の没後も、生まれ育った杉並区南阿佐ヶ谷の家(お屋敷です)に住む詩人の谷川俊太郎さん。本書はブライトンと阿佐ヶ谷を飛び交った電子メールによる往復書簡である。
インテリ家庭に育ち、常に詩の第一線に立ち続けてきた裕福なお坊ちゃま。ブルーカラーの家に生まれ、福岡最難関の名門高校に進みながらも、パンクミュージックにイカれて渡航費用のためのアルバイトと渡欧を繰り返し、英国に定住して四半世紀になる「地べたライター」。不思議な組み合わせだが、発案は岩波の『図書』編集部だったようだ。
第一信はブライトンから。2022年「七面鳥のサンドウイッチを食べながら菊正宗を飲む」元旦に、「はじめまして。ブレイディみかこと申します」という書き出しで始まる。
ブレイディさんは詩人がラジオ番組で「長い文章は書きたくないし、読みたくない」と呟いていたことに触れ、手紙は長い文章そのもの、「どうやって谷川さんと交信をはじめるなどということができるでしょう?」「不可能にしか思えません」と、怖じ気づく自分を素直にさらけ出す。
詩の交換ができたらいいが、自分に詩作はとうてい無理。ではどうやって「不可能」と「無理」の間に隘路を通すのか。ビジネスシーンにおいても一般人の会話でも、コミュニケーションを成りたたせようと思ったら、誰でも必死で共通項を探すもの。ブレイディさんもそうした。
彼女が捉えた徴(しるし)は、詩人の「あるとない」という詩だった。米国の作家ジャック・ロンドン(1876~1916年)がロンドンの貧困地区イーストエンドに潜入して書いた『どん底の人びと』。それを読んだ詩人が「自分は貧困を書いたことがない」と気づき、うみ落とした詩だった。
『どん底の人びと』は奇しくもブレイディさんの「座右の書」でもあった。「わたしの人生はこの本に遠隔操作をされているのではないかと思うほど」。イーストエンド出身の男性と結婚したのも遠隔操作のなせるワザだったかもしれないし、貧困地域の託児所で働いた日々を描いた『子どもたちの階級闘争』は、『どん底の人びと』から直接的な影響を受けている、と。
ちなみに私がブレイディみかこ本の追っかけになったのは、この『子どもたちの階級闘争ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(2017年みすず書房刊 同年新潮ドキュメント賞受賞)がきっかけである。留学記や滞在記がエリート層のものであったことに初めて、逆接的に気づかされた。
「私は貧困をかいたことがない」という一文で始まる「あるとない」は、ブレイディさんの要約によれば、難病、戦車、国際、棺桶、田植え、カネの貸し借りなど、ラップのように「ある」と「ない」で軽快に進み、最終部で自由と寂しさに言及して一瞬ヘビィになりかけるも、「私は警官に不審尋問されたことがある」というユーモラスな一文で終わるという。
この場合のユーモラスは、ニヤッとするような「有邪気」の笑い。ブレイディさんはアイロニーと風刺でできたブリティッシュ・ユーモアの独特さにも触れ、こう書く。
「無邪気さは純粋さと結び付けられて最上のもののように思われがちです。が、何でも額面どおりに受けとってストレートに反応しなければならない世の中になれば」「殺菌された純白の真綿をみずから口と鼻に詰め込んで窒息するようなものです」
国民的詩人との往復書簡に怖じ気づいていること、ジャック・ロンドンが結ぶ縁、谷川詩へのリスペクト、そして自分のテリトリーであるブリティッシュ・ユーモア。いくつものフックを作って出されたこの第一信は、長くて読んでもらえないかもしれないという危険をはらみながらも、敬愛する会ったことのない年長者に宛てて出す手紙のお手本のようだ。
この手紙に対する谷川さんの返信がまたいい。「私は七十年以上詩の形で言語商売を続けてきましたので、アタマが詩頭になってしまっていて、散文に馴染めないんです」と前置きして、「萎れた花束」という詩を返信にする。こんな詩だ。
「道端に数本の萎れた野花が捨ててある/(中略)/スマホに保存された何気ない映像から/作家は物語の最初の一行を思い浮かべるが/詩はもうそこで完結しているのだ/と 彼は思う」
「根を実生活の土壌に下ろしたいのに/詩は無重力の宇宙に浮遊し/道端の萎れた花束に目を留めて/それをコトバにしようとするけれど」「人の役に立たないそのミクロな行動は/地球上の人類が直面している困難と/なんの関わりもない/と 彼は考える」
この詩は、朽ちていく小さな花束と自分が同じ時空にあることに「ささやかな歓びを感じているのを否定できない」と締めくくられていて、この詩に、ブレイディさんは思わず「えっ」と息を呑む。そのことを第二信に書く。
谷川さんの「萎れた花束」にはシンクロニシティがあった。というのもブレイディさんが福岡のティーンだった頃、愛や恋などからは遠く、UKの荒廃を写す路上のロックとして衝撃を受けたセックス・ピストルズ。ジョニー・ロットンが「俺たちは花々だ、ゴミ箱の中の」と歌った曲にちなんだ絵(プリント画)をネットで見て、買おうかどうか悩んでいたところだったのだ。
この詩に背中を押され、ブレイディさんは購入を決意。黄色のバックに毒々しいまでのピンクの花束が置かれた強烈な色彩が今の仕事部屋には合わないが、カーテンを変えればいいと思い直す。この流れから、第三信へのフックは「谷川さんが執筆されるお部屋には絵や写真が飾られていますか?」という質問に。
詩人はアンプやスピーカー、CDデッキにストリーミングで音楽を聴くPCが自分の必需品であると応答。そして「好きな音楽の数小節は好きな女性と並んで」「コスモスと直に触れ合うことのできる」「唯一のmedium」、「〈詩は音楽に恋をする〉というのが私が折に触れて口にする決まり文句の一つです」と答える。