あの世この世の「あわい」であるその世に遊ぶ
この後、本書のタイトルに採られた「その世」という詩が添えられるのだが、短いので全文を引用する。
「この世とあの世のあわいに/その世はある/騒々しいこの世と違って/その世は静かだが」「あの世の沈黙に/与していない/風音や波音/雨音や秘かな睦言」「そして音楽が/この星の大気に恵まれて/耳を受胎し/その世を統べている」
「とどまることができない/その世のつかの間に/人はこの世を忘れ/知らないあの世を懐かしむ」「この世の記憶が/木霊のようにかすかに残るそこで/ヒトは見ない触らない ただ/聴くだけ」
「ブレイディさんの手紙」+「短い私信を頭に置いた谷川詩」という組み合わせで進むこの往復書簡で、ブレイディさんはなんという贅沢を味わっていることだろう。詩人の生まれたての詩の最初の読者で、しかも独占しているのだから。
実はこのお二人の意外な組み合わせに、私は日英の教育事情が絡むのかなあと想像していた。ブレイディさんの名を一躍メジャーにした『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年刊 毎日出版文化賞特別賞、本屋大賞ノンフィクション本大賞受賞)は、日英ハーフである子息の姿を通して英国の公教育が目指す多様性を描いていた。一方谷川さんには、日本の国語教育に対して異議申し立てが多かった時期があったと仄聞する。
しかし小物のそんな予想など何の役にも立たず、今年93歳になる詩人は「とどまることができない」ゾーンであると知りつつ、あの世この世の「あわい」である「その世」にゆったりとたゆたう。
父母の古い家の下駄箱から古いノートを取り出し、「空間的座標ばかり気にして、時間的な座標、つまり歴史の中の自分に考えがいかなかったのが現在の私にとっては、自分の感性の原点を見るようで面白い」と、当時19歳、50.2.23の日付けのある「夜明け」(デビュー詩集『二十億光年の孤独』収録)をブレイディさんに送る。
第四信で詩人は「漱石調」という題名でこんな詩も書く。
「死に先立つものとして/詩がある/死に先立つものとして/生があると考えた」「生に先立つものは時だろう/時に先立つものはと考えて/(中略)」
詩人は立ち止まる。そして思う。そんなものはない、ただの言葉遊びだ、と。詩はこう続く。
「言葉は便利なようで不便なものだと考えた」
夏目漱石の『草枕』をパロった語調のリズムが、“ほんと漱石ですね”と笑ってしまったが、次行で空間的座標が転調する。
「宅急便が来てハンコを押した/空は青空だ」「急に嬉しくなった/自然の現場は無口だ/人間の尻の穴は小さい/吾輩は猫でないのが残念だ」
自分のいる場所がズームアウトしてマクロな宇宙の一点になる「夜明け」から半世紀以上の時を経て、今度は逆回転でミクロな尻の穴にズームインしてしまう対比がお茶目で楽しい。
感受性を粒立たせて生きるしか現実を生き延びる方法はない
ブレイディさんは第六信で、エリザベス女王の葬儀から幽霊に話を延ばし、ドロドロには気合いがいる、現代の我々は幽霊になれるほどの体力を持ち合わせていないと笑わせたあと、英国の若者世代に広がりつつある「人類は少しずつ体を失っていく途上にある」という思想(めいたもの)を伝える。
脳をアップロードしてデータとして生きるようになれば、人種差別もジェンダーもルッキズムも、戦争や環境などあらゆる問題が消え、人間はいまよりずっと幸福になると、若者世代は真顔で言うのだとか。
詩人はこれに深く感応する。「最近試乗中の電動椅子は自分のアンドロイド化の初歩的な段階だろうかと考えざるを得ません」。そして幽霊のドロドロにはこう反応する。「私は(足があると失格の)幽霊よりも(足の有無にこだわらない)お化けの方が性に合って」いるけれど、「私はどうやらアンドロイドよりも、幽霊に近づいているのかもしれません」。
ホモソーシャル共同体の裏返しとして、男性は同朋の老いを近親憎悪しがちだから、あまり引用したくはないのだけれど、第八信で書く「これ」という詩が詩人の近況を伝える。
「これを身につけるのは/九十年ぶりだから/違和感があるかと思ったら/かえってそこはかとない/懐かしさが蘇ったのは意外だった」(中略)「二度童(にどわらし)という言葉が私は好きです」
南阿佐ヶ谷に住んでいたことがある私は、ときどき詩人と佐野洋子(1938~2010年)さんが青梅街道を歩く姿をお見かけすることがあって、胸ときめかせていた。最強のカップルだと憧れていた。
詩人は終章となる第九信にこう書く。自分にとって女性との関係は「一人っ子と母親の関係」の繰り返しに過ぎず、恋人は母ではなく一人の赤の他人だという苦い事実を悟らざるを得なかった。「恋人との別れを通して私は初めて他人というものの存在を実感したのです」
この後に添えられた「自分だけ」という詩から最後の3行だけを引用します。
「この世は他人だらけである/他人でないのは自分だけだと思うと/寂しい」
谷川さん、いまいるそこは寂しいですか? でも新緑のように瑞々しかった『二十億光年の孤独』の寂しさが、腐葉土のように発酵していい匂いの寂しさになっていませんか?そう感じるのは私だけですか?
ロシアによるウクライナ侵攻、女王の逝去、ブレイディさんの母の看取りなど、歴史的出来事から私的領域の変化、未来の人類の姿まで、いくつになっても感受性を粒立たせて生きるしか現実を生き延びる方法はないのだと、この往復書簡は教えてくれている気がする。