ところがこの劉邦は、始皇帝のような中央集権体制を築くことはできませんでした。劉邦は、大勢の人たちの力を借りて漢(前漢)を建国しました。劉邦に協力してくれた人々とは、中央集権的で強権的だった秦の治世へ反発した人々です。

 したがって中央から地方に派遣した官僚が各地を管理する中央集権的な「郡県制」ではなく、地方分権的な「郡国制」を採用したのです。漢を建国した劉邦は、自分のために戦ってくれた一族の諸侯や功臣の功績を無視するわけにもいかず、彼らに領地を与え諸侯王や列候として厚遇しなければならなかったのです。これが前漢の、大きな特長でした。

 ただし劉邦は、直轄地には郡県制を、それ以外の地には郡国制を採用しました。中央集権的体制を理想としながらも、諸侯王たちの権力をある程度容認するという折衷案だったのです。

 高祖以降の漢の皇帝たちはどうだったかと言えば、やはり、諸侯王の権力を奪い取って、皇帝の権力を強め、独裁体制を敷こうと目論みました。すると当然、それに対して、諸侯王が反発します。それが爆発したのが、前154年に勃発した「呉楚七国の乱」でした。

【地図1】呉楚七国の乱 ©アクアスピリット
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 地図にあるように、漢に反旗を翻した諸侯王の領土を合わせると非常に大きいものでした。諸侯は半独立国で、この反乱を平定しない限り中国はまた大きな混乱に見舞われる可能性がありましたが、この乱は皇帝であった景帝(在位:前157〜前141年)により3か月間で鎮圧されました。これをきっかけに、諸侯王の勢力は大きく削減されることになります。

武帝登場

 武帝(在位:前141~前87年)が即位したのは、このような時代でした。その治世になると、諸侯の力はさらに弱められ、君主独裁制が一層強められることになりました。

 このころ、漢はある脅威に悩まされていました。それは北方の遊牧騎馬民族、匈奴の攻撃です。匈奴は、秦の始皇帝が建設し、漢も整備を続けた万里の長城を越えて、中原(黄河中流域)まで侵攻し、略奪を繰り返していたのです。