2024年2月、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が国産ロケット「H3」の打ち上げに成功した。成功までの軌跡をさかのぼると、「国産ロケットの父」糸川英夫氏のイノベーションにたどり着く。糸川氏はいかにして困難を乗り越え、世論やマスコミを味方につけて日本初となるロケット開発に成功したのか。前編に引き続き、2024年2月に著書『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』(日経BP)を出版した田中猪夫氏に、国産ロケット開発の舞台裏や、イノベーションを生み出す思考プロセスについて聞いた。(後編/全2回)
■【前編】国産ロケットH3に宿る「ロケットの父」糸川英夫氏の哲学、その原点となった「母の教え」とは
■【後編】マスコミからの厳しい批判を鎮静化、「国産ロケットの父」糸川英夫氏が生んだ“突拍子もない発想”(今回)
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糸川氏の「マーケター思考」によって日本中が巻き込まれた
──前編では、「国産ロケットの父」糸川氏がロケット開発の現場に及ぼした影響や、短期間でイノベーションを生む方法論について聞きました。糸川氏は今から約60年前、「太平洋を20分で横断するAVSA構想*1」を発表し、省庁やメディア、多くの人々から注目を集めました。一見、非現実的とも思える発想で多くの方の期待を集めることができた要因は何だったのでしょうか。
田中猪夫氏(以下敬称略) それは糸川氏が「マーケター思考」を持ち、日々行動していたことだと思います。
糸川氏がペンシルロケットを開発していたころ、ロケットの開発予算が全くありませんでした。そこで糸川氏は飛行機工場で余っていた金属棒と、朝鮮戦争の際に使われていたバズーカ砲の固形燃料、この二つの材料を組み合わせてロケットの原型(ペンシルロケット)を作り、実際に発射実験して見せたのです。
記者から取材を受けた際には、厚紙で作ったロケットのようなものの写真を撮らせて、新聞記事に掲載させました。予算ゼロで作った模型は「ロケット旅客機/20分で太平洋横断/八万メートルの超高空をゆく」という見出しと合わせて朝刊の社会面に載ることになります。
結果として、この記事が文部省のロケット開発予算の獲得を後押しし、日本中を巻き込んでいきました。
イノベーションを生み出すためには逆境が必要です。生物も逆境を糧に進化します。糸川氏は「ロケットを開発する予算がない」という逆境を逆手に取り、周囲を巻き込むことで成功へと導いたわけです。
ここで注目すべきは、糸川氏が一つも「ロケットの図面」を描いていないことです。ペンシルロケットの図面も、大学を卒業してすぐの人に描かせており、そのメンバーの成長機会となりました。
ペンシルロケットのプロジェクトには35名が参加していましたが、誰もが社会的使命感を持った糸川氏に巻き込まれる形で育ち、人工衛星を打ち上げる頃には皆その道の権威になっていました。
*1 AVSA:航空電子工学と超音速空気力学(Avionics and Supersonic Aerodynamics)を意味する言葉。