三井住友銀行の福留朗裕頭取は同行初となる三井銀行出身の頭取で、海外には約16年駐在している。この間、同氏が幾多の荒波を乗り超えてきた中で一貫して徹底したのが“現場主義”だった。福留氏のビジネス半生におけるターニングポイントや、そこで培った学びや気付きについて聞いた。
<ラインナップ>
【前編】三井住友銀行・福留頭取が約16年の海外駐在で実感した「現場主義」の大切さ(本稿)
【後編】三井住友銀行・福留頭取が語る、モバイル総合金融サービス「Olive」の勝算
アジア通貨危機、リーマンショックで得た「気付き」
──三井銀行に入行された1985年は5カ国蔵相会議、いわゆるプラザ合意があった年で、その後の急激な円高やバブル経済の起点にもなりました。福留さんはなぜ銀行に就職しようと思われたのでしょうか。
福留朗裕氏(以下敬称略) 当時は自動車や電機、半導体といった業界の企業が世界に冠たるビジネスを築いていましたが、私は就活でなかなか業種を絞り切れずにいました。ただ、特定のプロダクトや業種に人生を賭けるより、あらゆる業界をカバーしている銀行や商社のほうが向いているのではと考えていたのです。
そこで大学のゼミの先輩からの誘いもあって入行しました。学生時代は東京の国立市に住んでいたのですが、当時、三井銀行の国立支店が非常に大きく立派で、かつ瀟洒(しょうしゃ)でした。そんな建物の良いイメージに惹かれていたというのもありましたね。
入行後、最初の配属は東京の赤坂支店で約4年間在籍しましたが、次第にバブル経済が膨らみ、不動産の融資案件が急増していったことをよく覚えています。特に都心の赤坂支店だったこともあり、融資額は一気に積み上がっていきました。
そんな中で人手が足りなくなり、私のような新人でも、不動産融資案件の稟議書を書かせてもらっていました。その後、京都支店で約2年間、製造業のお取引先の手伝いをさせていただきました。
――京都支店の後、為替トレーダーとしてロンドンに1年赴任された時期を含めると、およそ16年間の海外駐在を経験されています。
福留 1997年の香港を皮切りに15年連続で海外駐在していたキャリアは、当行の中でも珍しいかもしれません。
1997年といえばアジア通貨危機が勃発した年で、たとえば当時5、6%だった香港ドルの金利がいきなり300%になってしまうという、完全に金融マーケットが崩壊する現実を経験しました。私はその一部始終を目の当たりにして、当時のアジア通貨関連の新聞記事をすべてファイルに綴じて保存しています。
その資料は2008年、ニューヨーク駐在時に見舞われたリーマンショック時に活きました。リーマンショックの様相はアジア通貨危機と非常に似ていたからです。
もちろん、香港ドルと基軸通貨である米国ドルとでは世界経済に与えるインパクトは全く異なりますが、本質的な部分は同じでした。そのため、私はリーマンショック時もあまり動揺することなく、いろいろなことに冷静に対処することができたのではないかと思っています。
リーマンショック時に部下たちに言っていたのは、「金融危機は定期的に必ず起こるもの。10年後にはまた同じようなことが起こるだろう。だから、いま経験していることの子細をノートにメモしておこう」ということでした。
米国の作家、マーク・トウェインは「歴史は繰り返さないが韻を踏む」という言葉を残しましたが、アジア通貨危機を現場の最前線で経験した私としては、リーマンショックで韻を踏むことを実感したわけです。