小倉昌男氏(2003年当時、撮影:横溝敦)

「宅急便」の生みの親の小倉昌男氏。会った人は誰もが「温厚な紳士」と口を揃える。言葉遣いも丁寧で荒ぶる素振りは一切見せない。しかしその80年の生涯は、闘い続けた歴史でもある。相手は最大の取引先や監督官庁という権力者ばかり。そこに江戸っ子経営者である小倉氏の真骨頂を見ることができる。

邦楽をたしなむ粋人、福祉に情熱を傾ける篤志家の顔も

「銀座くらま会」という集まりがある。銀座で商いをする旦那衆(女性も含む)が長唄や常磐津などの邦楽を楽しむ集まりで、年に1回、新橋演舞場でその腕前を披露する。9月27日に開いた今年のくらま会で99回を数えた。

 このくらま会の会長を生前、長らく務めていたのが、宅急便の生みの親で、ヤマト運輸(現ヤマトホールディングス)の社長、会長だった小倉昌男氏(1924‐2005)だ。言わば銀座の旦那衆のまとめ役だった。くらま会での小倉氏は、いつも楽しそうで、これが人々のライフスタイルを変えた宅急便の「発明者」とは思えないような態度だった。

 同じ日本人のライフスタイルを変えた経営者でも、コンビニエンスストア「セブンイレブン」の生みの親である鈴木敏文氏(元セブン&アイ・ホールディングス会長)には、近寄りがたい雰囲気と、圧倒的なカリスマ性があった。ところが小倉氏にはそれがない。取材時でも柔らかい物腰で、丁寧に質問に答えていく。取材終了後もエレベーターまで見送りをするなど、その低姿勢にこちらが恐縮してしまうほどだった。

 小倉氏は1990年に夫人を亡くし寂しかったこともあってか、新橋芸者の熱心なサポーターでもあった。芸者衆と毎月定額を積み立て、そのお金でお伊勢参りを楽しんだりしていた。これも偉ぶることなく誰にでも分け隔てなく接する小倉氏の人柄あってのことだろう。小倉氏自身「料理屋で彼女らを相手に酒を飲んでいるのが一番落ち着く。彼女らは僕を客というより仲間と思っている」と語っている。

 そして晩年の小倉氏が力を注いだのが、障害者福祉だった。

 東京都港区赤坂1丁目。米国大使館にほど近い場所に立つ日本財団ビルの1階に「スワン」という名のカフェ&ベーカリーがある。これは小倉氏が設立したヤマト福祉財団の事業で、多くの障害者が働いている。1号店の誕生は1998年だが、今ではフランチャイズ店も含め全国に約30店を展開する。

 小倉氏が福祉事業にのめり込んでいった理由については、ジャーナリストの森健氏が、大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞した『小倉昌男 祈りと経営』(小学館)で丁寧に解き明かしているが、小倉氏は財団を設立するにあたり、所有するヤマト運輸株300万株のうち200万株を提供している。金額にして20億円あまり。伊達や酔狂で出せる金額ではない。

 当時も障害者雇用に力を入れている企業はいくらでもあったが、支払う給料は月額1万円程度。「これでは障害者の自立は不可能」と思った小倉氏は、経営的観点から福祉に取り組んだ。その結果、スワンの従業員は月額10万円の給料を受け取ることができた。

 このように小倉氏は経営者であると同時に、邦楽をたしなむ粋人であり、福祉に情熱を傾ける篤志家でもあった。そしてどの場面でも共通したのは、「温厚で誠実な紳士」な姿だった。