人びとを飢えと孤独から救った大正期の食堂

『胃袋の近代』に「寄り集まって食べること」の意味を探る

2018.08.10(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要

「胃袋の集団化」とは、近代、特に大正期以降、工業化と都市化が進み、労働者などが食べるために集まる場所が登場し、また貨幣との交換で手に入れる「食べもの」の割合が増えたことで起きた食の集団化を指している。そして、近代における「胃袋の集団化」に至るまでの事例を本書で示していく。

「孤立した胃袋」が「一膳飯屋」を頼りに

 まず、林芙美子の『放浪記』を引いて、大正期の「一膳飯屋」の様子を伝える。<ドロドロに汚れた労働者>が、食堂の小娘に<十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ>と頼むと、大きな飯丼、葱と細切れの肉豆腐、濁った味噌汁が出される。林には<涙ぐましい風景>に写ったが、<労働者はいたって朗らか>でもあった。人いきれや息づかいまでが感じられる。

 林、労働者、小娘の描写から、著者は一膳飯屋を、東京で働く労働者たちの「孤立した胃袋」が集まるひとつの場所として見る。そして、一膳飯屋は、食べものにありつけた一瞬を喜ぶ朗らかさと、日々どん底を実感せざるをえない憂鬱さが同居している空間なのだと結ぶ。

 近代は、地方から東京などの大都市に人びとが移入していった時代だった。当時は、飯1皿が5銭、鯛焼きが10銭、酒が15銭だったという。わずか10銭で、肉豆腐定食を食べさせてくれる一膳飯屋が、いかに「孤立した胃袋」を刹那的に満たしていたものかが分かる。

職も求める場としての「食堂」

 都市の労働者たちが食べる空間は、「飯屋」から「食堂」へと移ろう。すでに明治末期ごろの浅草では、一膳飯屋が和洋折衷の食堂に化していたという。

 大阪では、1912(明治45)に設立され、今も生活保護・生活困窮者支援などの活動をしている大阪自彊館(おおさかじきょうかん)が、大阪市内の日本橋筋東に「第一簡易食堂」を開設した。1918(大正7)年のことだ。1食10銭で食べ放題。長蛇の列ができたという。困窮者たちの胃袋を「食」で満たすだけでなく、日々を暮らすための「職」にたどり着く入り口を提供する役割を持っていたことに著者は言及する。

 社会へつながる民間食堂の存在は、地方自治体にとっても参考になったようだ。1918(大正7)年、「米騒動」にもつながる米価暴騰が起きると、各都市は「公営食堂」を設立する計画を立てる。そして、東京市内では同年「平民食堂」が設置され、続いて大阪や神戸などの大都市のほか、山形などの中都市でも公営食堂が設置された。

 とりわけ不況時には盛況で、1食10銭で<一合五勺余の飯を盛った丼に生烏賊と里芋の煮付と切牛蒡(きりごぼう)の油いため>(当時の新聞より)を出すような東京の簡易食堂には、労働者、職工、商店員、学生、洋服着などの客が押すな押すなと詰めかけたという。東京の公営食堂には、1923(大正12)年の関東大震災後の復興に向けての意味も込められた。

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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