言語の拡散を後押しした3つの要因

 本書の残りの部分(第II部)で、著者はインド・ヨーロッパ語族の具体的な拡散過程を丹念に跡づけている。その議論の詳細については本書自身を参照してもらうことにして、ここでは重要と思われるポイントを3つ指摘しておこう。

 まずひとつは、そこで描かれる拡散過程は、インド・ヨーロッパ語族の分岐に関する言語学的知見と符合するという点である。著者はおもに考古学的証拠にもとづいて、「西へ、東へ、西へ、北および東へ」という拡散の大きな流れを描き出す。そしてそのパターンは、言語学から推測されるインド・ヨーロッパ諸語の分岐の順序や方向とうまく合致するのである。この合致は、言わずもがな、著者の描くストーリーに大きな信憑性を与えている。

 第二は、問題の拡散はけっして一度きりではなかったし、(その要因も含めて)けっして一様ではなかったという点だ。インド・ヨーロッパ諸語の拡散といっても、その話し手の移住という形で進展することもあれば、(社会制度などとセットになった)文化圏の拡大という形で進展することもあったし、そのほかの形で進展することもあっただろう。それゆえ、著者の描く拡散過程も「何段階にもわたる一様ではないプロセス」から成っており、けっして単純なものではない。

 第三は、そうは言いつつも、インド・ヨーロッパ諸語の拡散を後押ししたとりわけ重要な要因が存在するという点である。そしてその要因こそが、本書のタイトルにもある「馬」と「車輪」である。

 先に見たように、印欧祖語の話し手はすでに車輪付きの乗り物を使用していたと考えられる。それに加えて、印欧祖語の原郷たるステップでは、馬の家畜化と騎乗がいち早く始まっていたと著者は考える(後述も参照)。「彼ら[印欧祖語の話し手たち]は近隣の民にくらべてなんら優れていたわけではない」。しかし、「彼らは輸送手段の技術革新がもたらした恩恵をこうむれる場所にいた」のだ。

 騎乗と車輪付き乗り物がさまざまな恩恵をもたらしたことは、想像に難くないだろう。たとえば誰もが思いつくように、馬に乗れることは他部族との抗争において大きな利点となったはずだ。だがそれだけでなく、馬があれば牧畜民は大きな群れを放牧することができただろうし、あるいは、遠く離れた場所を短時間で偵察することもできただろう。また四輪荷車があれば、必需品をそれに載せることで人々の移動距離は伸長し、ステップの奥地へ進出することも可能となったにちがいない。そのようにして、インド・ヨーロッパ諸語の話し手が拡大していくにあたって、馬と車輪はことさら重要な役割を果たしたと考えられるのである。

 以上、ポイントを3つに絞って、問題の拡散過程に関する著者の議論を見てきた。かつてひとつのステップで話されていたその言語は、かくして、形を変えながら広い地域へ拡散していったというわけだ。

壮大なストーリーと緻密な論拠

 というのが、本書の議論の大まかな流れである。ただ本書では、上記のもの以外にも興味深い問題がいくつも論じられている。たとえばそのひとつが、馬の家畜化と騎乗の起源に関する問題だろう。「印欧祖語の話し手たちはすでに馬に乗っていた」という自説を補うため、著者はその問題にじつにユニークかつ鮮やかな方法で光を当てている。なお、その問題を論じた第10章こそが、本書のなかで最もエキサイティングなもうひとつの箇所ではないかと思う。ぜひ当該箇所に当たって、その問題と著者のアプローチをチェックしてほしいところだ。