言語によって、脳内における情報処理のアルゴリズムが異なるという研究事例もあり、そうなってくると、他の言語圏との比較も必要になってしまう(ちなみに山口氏は米国人とのやり取りではそうした行き違いは生じにくいとも主張している)。

 ここまでくるとテーマが壮大になりすぎてしまうのだが、実務的には2つのアプローチがあると筆者は考えている。

 1つは可能な限り、口頭ではなく文書でのコミュニケーションを実施するよう心がけ、このやり方に社会全体として慣れていくというもの。もう1つは、表現や表記の方法を体系化し、可能な限り分かりやすくするというものである。

 日本では以前からテレワークなど遠隔で勤務できる環境整備が必要と指摘されてきたが、一向に導入は進んでいない。その理由は技術的なものではなく、メンタルなものである可能性が高い。

 日本の職場では、業務の指示や責任の範囲が不明瞭なことが多く、チーム全員が顔を合わせて、状況を逐一確認していかないと仕事が進まない。確かに、表情やしぐさなど、ビジュアルな情報があれば、言語が不明瞭でも意思の疎通は可能だろう。しかし、こうしたスタイルにばかり慣れてしまうと、文書を読み書きする能力が高まらないのは当然である。

 働き方改革が社会全体の課題になっていることも考え合わせると、業務の指示や責任の範囲を文書で明文化する努力が必要なのは明らかであり、これを実践すれば、文章の読解力は確実に向上する。

情報の整理、表現の工夫でも改善は可能

 こうした試みとは表裏一体の関係だが、多くの人に明瞭に意図を伝えるためのテクニックも必要だろう。筆者は職業柄、日米の経済統計をWebサイトで閲覧することが多いのだが、両国のWebサイトには驚くべき差がある。