本土復帰した沖縄で産業の柱になった果物

シークヮーサーと沖縄の人々の“共生”(前篇)

2018.02.09(Fri) 漆原 次郎
筆者プロフィール&コラム概要
熟す前のシークヮーサーとその絞り汁。

 1960年代半ば、この村のパイナップルの缶詰工場は、夏から秋にかけてのわずかな期間しか稼働していなかった。そこで、遊休の期間を使ってシークヮーサー加工が行われ、ジュースが県内で売られるようになった。「産業」としてのシークヮーサー利用の始まりだ。

 昭和50年代になるとジュースの新たな製造法が開発されるなどし、1982(昭和57)年には果汁入り飲料「ヒラミ8」が発売されるなどし、シークヮーサーの栽培面積や生産量が増えていった。

 その後、さらに大きな転換点を迎える。農林水産省が1991年から開始した10年の大型事業「バイオ・ルネッサンス」計画などで、シークヮーサーの健康機能についての研究が盛んに行われるようになった。日本全体の健康志向を背景に、シークヮーサーの認知度は全国的に上がり、ブームとなったのだ。市場規模も数年の間に50倍になったという。

シークヮーサーとの“共生”関係は太くなり・・・

 沖縄の人々は長らくシークヮーサーと“共生”を果たしてきた。長年にわたる細々としながらも安定していたその関係性は、20世紀後半に大きく変化したといえる。

 人々は自分の食、健康、暮らしのための恵みだけでなく、産業を介しての恵みもシークヮーサーから得るようになった。一方、シークヮーサーのほうは自生のみならず、人に手による栽培という新たな繁殖の方法を手に入れたことになる。

 今後、人々はシークヮーサーとどのような関係を、さらに築こうとしているのだろう。新たな関わり方の事例を見ていきたい。

後篇につづく)

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1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。


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