明治時代から庶民の味方だった「牛丼」

どんぶりで受け継がれる文明開化の味

2012.05.11(Fri) 澁川 祐子
筆者プロフィール&コラム概要

 寛政(1789~1801)から天保(1830~44)までの風俗を描いた江戸末期の書『寛天見聞記』(著者、刊行年ともに不明)には、<蕎麦屋の皿もりも丼となり>と記されており、この頃には蕎麦屋でどんぶりを用いていたことが分かる。

 また、1837(天保8)年から約30年間にわたり書き続けたと言われている江戸時代の風俗や事物を解説した書『守貞謾稿』(喜田川守貞著)には、<京坂にて「まぶし」、江戸にて「どんぶり」と云ふ。鰻丼飯の略なり>と記されている。アサリやハマグリなどの貝と、ネギなどの野菜を煮込んだ味噌汁をぶっかけた深川飯も江戸末期には登場している。

 ご飯の上に汁物や具をぶっかけた、手っ取り早く食べられるどんぶりもの。その存在があってこそ、初めて牛飯へとつながっていくのである。

元祖牛丼は味噌味だった

 一世を風靡した牛鍋と、手軽などんぶりもの。その2つが結びついて、鍋の残り汁をご飯にぶっかけたものが、単体の料理として確立するまでに、そう時間はかからなかった。

 朝日新聞のデータベースで検索してみると、「牛飯」という言葉が1890(明治23)~1900(明治33)年の10年間で5件、ヒットした。牛飯を食い逃げした警官が捕まったとか、牛飯屋に強盗が入ったとか、いずれも世俗的な事件に絡んだ小記事だった。つまり、明治の初めにはすでに牛飯が存在していたということだ。

 明治20年代、カレーライスは5~7銭したが、牛飯は「一椀一銭」。すじ肉やこま切れ肉とネギを煮込み、ご飯にぶっかけただけ。手軽で安く、しかもボリュームがあるとくれば、またたくまに広まったに違いない。

 そして1899(明治32)年。大手牛丼チェーンの吉野家の前身、「吉野屋」が松田栄吉によって、当時日本橋にあった魚河岸に開かれる。店名の由来は、松田が大阪吉野町の出身だったことからつけられた。牛飯を「牛丼」と呼び始めたのも吉野屋が最初だと言われている。

 牛飯はまた、「かめちゃぶ」の名でも親しまれた。戦前から戦後にかけて活躍したコメディアンでグルメでも知られる古川緑波は、「下司味礼賛」というエッセイ(『ロッパの悲食記』初版1959年、学風書院に収録)の中で、牛丼について以下のように熱く語っている。

 <むかし浅草に盛(さかん)なりし、牛ドンの味。カメチャブと称し、一杯五銭なりしもの。大きな丼は、オードンと称したり。/あの、牛(ギュウ)には違いないが、牛肉では絶対にないところの、牛のモツや、皮や(角は流石に用いなかった)その他を、メッチャクチャに、辛くコッテリ煮詰めた奴を、飯の上へ、ドロッとブッかけた、あの下司の味を、我は忘れず。/ああ下司の味!>

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1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライターとして食や工芸・デザインを中心に、読むこと、食べること、暮らすことをテーマとしたインタビューやルポ、書評を執筆。『森正洋の言葉。デザインの言葉。』(ナガオカケンメイ監修、美術出版社)、『最高に美しいうつわ』(SML監修、エクスナレッジ)の取材構成ほか、近著に当連載をまとめた『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)がある。


食の源流探訪

日本人が日常茶飯としている定番食。あまたある食べものの中で、
なぜそれが定番になり得たのか。どのように日本化されていったのか。
「新・日本食」の源流からの流れを、歴史をひもときながら考察する。