明治時代から庶民の味方だった「牛丼」

どんぶりで受け継がれる文明開化の味

2012.05.11(Fri) 澁川 祐子
筆者プロフィール&コラム概要

 以前、大学のある街に住んでいたとき、家まで帰る道に吉野家、すき家、松屋の牛丼3大チェーン店が飛び飛びに並んでいた。夜遅くに帰ってきても、それらの店はこうこうと明るく、いつも数人の客がこちらに背を向けて座っていた。どんぶりを抱え込んでいるせいか、みな心なしか背中が丸まっていた気がする。

 先の3大チェーンになか卯を加えた牛丼の全国チェーンの店舗数は、2012年3月期の合計で4400店弱。これに特定地域で展開しているチェーンや非チェーン店などを加えると、4500という数字に届くのではないか。

 国内のマクドナルドの店舗数が2011年現在で約3300店というから、牛丼屋はまぎれもなく現代を代表する和のファストフードだ。

 牛肉は、周知のように文明開化を象徴する食材である。その牛肉と米がどんぶりの中で出合って誕生したのが、すなわち牛丼である。では、いったいどのように出合ったのか。今回は明治生まれのファストフード、牛丼の起源を追ってみよう。

牛丼の原点は牛鍋

 牛丼の歴史をさかのぼっていくと、牛鍋に行き当たる。牛鍋とは、開国に揺れる幕末に誕生した、牛肉の和風鍋料理である。

 牛鍋が登場したのは1862(文久2)年。横浜入船町(現在の横浜市中区常盤町、尾上町近辺)で「伊勢熊」という居酒屋を営んでいた主人が女房の反対を押し切り、牛の煮込みを売り出したのが始まりとされている。

 当時、横浜は外国人居留地として栄えていた。1860(万延元)年、横浜居留地でアイスラー・マーティンデル商会が食肉業者第1号として肉の販売を開始。その後8年間で外国人が経営する食肉店が7軒できたという。1867(慶応3)年には、東京の高輪で中川嘉兵衛という人物が、日本人としては初めて肉の販売を手がける。

 中川嘉兵衛は日本で初めて採氷を試みた事業家で、牛肉を売り始めたのと同じ年に横浜の元町でパン、ビスケット、洋酒などを販売している。

 牛肉販売開始の翌年にあたる1868(明治元)年には、東京芝露月町(現在の港区新橋5丁目付近)で、中川は東京では初めてとなる牛鍋屋「中川」を開店。「御養生牛肉」と旗を掲げて売り出すも、開店当初は「肉が臭い」など評判が悪く、繁盛はしなかったようだ。

 だが、1869(明治2)年になると、神楽坂に「鳥金」、蠣殻町に「中初」、小伝馬町に「伊勢重」と東京に牛鍋屋が次々と現れ、急速に普及していく。

この連載記事のバックナンバー
トップページへ戻る

1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライターとして食や工芸・デザインを中心に、読むこと、食べること、暮らすことをテーマとしたインタビューやルポ、書評を執筆。『森正洋の言葉。デザインの言葉。』(ナガオカケンメイ監修、美術出版社)、『最高に美しいうつわ』(SML監修、エクスナレッジ)の取材構成ほか、近著に当連載をまとめた『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)がある。


食の源流探訪

日本人が日常茶飯としている定番食。あまたある食べものの中で、
なぜそれが定番になり得たのか。どのように日本化されていったのか。
「新・日本食」の源流からの流れを、歴史をひもときながら考察する。