稀代の企業家にして、社会事業家。新一万円札に肖像が採用された渋沢栄一は、日本近代資本主義の父とも呼ばれる。大正5(1916)年に刊行された講演録『論語と算盤』は、金儲けは卑しいものとされ道徳とは相容れないと考えられていた時代に、論語を基にした道徳とビジネスを調和させることで社会をよりよくできることを示して、社会に大きな影響を与えた。本連載では、『詳解全訳 論語と算盤』(渋沢栄一著、守屋淳訳・注解/筑摩書房)から、内容の一部を抜粋・再編集。今や大谷翔平選手の愛読書としても知られる本書を、分かりやすい現代語訳と詳細な注釈を通じて読み解く。
第1回は、社会や個人の健全な発展のために必要なものを概観し、渋沢栄一のモットーがどのようにして生まれたのかについても解説する。
<連載ラインアップ>
■第1回 道徳と富は相反する? 稀代の企業家・渋沢栄一が説く「道徳経済合一」とは(本稿)
■第2回 なぜ道徳の書で「商人の才覚」が学べるのか?渋沢栄一が語る「士魂商才」とは
■第3回 自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?
■第4回 「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法
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『論語』とソロバンは、とても遠くて、とても近いもの
われわれが道徳の手本とすべき最も重要な教えが載っているのが、弟子たちが孔子(1)のことについて書いた『論語』(2)という書物だ。これはたいていの人は読んだことがあるだろう。
わたしはこの『論語』に、ソロバンというとても不釣り合いで、かけ離れたものをかけ合わせて、いつもこう説いている。
「ソロバンは、『論語』がないと、成り立たない。『論語』に象徴される道徳もまた、ソロバンに象徴されるビジネスや経済の働きによって、現実の活動と結びついてくる。だからこそ『論語』とソロバンは、とてもかけ離れているように見えて、実はとても近いものでもある」
わたしが70になったときに、友人が1冊の画集を造ってくれた。その画集の中に『論語』の本とソロバン、一方にはシルクハットと大小の朱色に塗った刀のサヤが描いてある絵があった。ある日、学者の三島毅〔みしまき〕(3)先生が、わたしの自宅にいらっしゃって、その絵をご覧になって、こう言われた。
「とても興味深い。わたしは『論語』を研究する学者で、おまえはソロバンを使って経済活動している方だ。そのソロバンを使っている人が『論語』のような本を立派に語る以上は、自分もまた『論語』だけで済ませず、ソロバンを使う経済活動の方も大いにきわめなければならない。だから、おまえとともに『論語』とソロバンをなるべくくっつけるように努めよう」
そのうえ、『論語』とソロバンについて、道理と事実と利益とは必ず一致するものであることを、さまざまな例証をそえて本格的な文章に書いてくださった。
わたしは常々、モノの豊かさとは、大きな欲望を抱いて経済活動を行ってやろうというくらいの気概がなければ、進展していかないものだと考えている。空虚な理論に走ったり、中身のない繁栄をよしとするような国民では、本当の成長とは無関係に終わってしまうのだ。
だからこそ、政界や軍部が大きな顔をしないで、実業界がなるべく力を持つようにしたいとわれわれは希望している。実業とは、多くの人に、モノが行きわたるようにするなりわいなのだ。
これが完全でないと国の富は形にならない。国の富をなす根源は何かといえば、社会の基本的な道徳を基盤とし、正しい方法で手に入れた富なのだ。そうでなければ、その富は完全に永続することができない。
ここにおいて『論語』とソロバンというかけ離れたものを一致させることが、今日の急務だと自分は考えているのである。
(1)前552~前479 本名は孔丘〔こうきゅう〕、子〔し〕は先生という意味。中国の春秋時代末期に思想家・政治家・教育者として活躍した。
(2)孔子とその弟子たちの言行を孫弟子や曾孫弟子がまとめたといわれる。孔子自身が書き残したわけではない。
(3)1831~1919 号は中洲〔ちゅうしゅう〕。現在の二松学舎〔にしょうがくしゃ〕大学の創立者。新治〔にいはり〕裁判所長や大審院〔だいしんいん〕判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛〔とうぐうごようがかり〕などを歴任した。