■解説:渋沢栄一のモットーの由来

 渋沢栄一のモットーとして有名なのが、本書のタイトルともなった「論語と算盤」であり、他にも「道徳経済合一説」「義利合一」といった言葉があります。

 いずれも意味はほとんど同じで、社会や個人の健全な発展のためには「道徳と経済」や「公益と私益」といった対極的要素の両立が必要であると唱えています。ただし、これらのモットー自体はもともと、漢学者である三島中洲(本文では三島毅ですが、ここでは一般的な三島中洲という呼び名を使います)が発案したもので、栄一のオリジナルではありませんでした。

 三島中洲は、東京帝国大学教授や東宮の侍講(皇太子の教育係)をつとめ、今の二松学舎大学を作った人物。そんな彼は、江戸時代の末期に、師匠であった陽明学者・山田方谷〔やまだほうこく〕(1805~1877。名は球)とともに備中〔びっちゅう〕松山藩(今の岡山県高梁〔たかはし〕市あたり)の藩政改革に関わったことがあります。

 本書の中で栄一は、儒教のなかでも大きな影響力を持った朱子学を「口で道徳を説いたうえに、自分自身でも社会正義のために現場で苦労しようとはしなかったのだ」(380頁)と、しばしば批判しています。一方、山田方谷や三島中洲が影響を受けたのは、理論よりも実践を重視する陽明学の教えでした。

 実際に2人は、藩政改革の実践によって、借金に苦しむ藩の財政を立て直し、藩や領民を豊かにしていったのです。中洲はこの意味で、素晴らしい政治には、健全な経済活動が必要不可欠であることを実体験していた人物でした。

 三島中洲は明治10(1877)年、第八十六国立銀行(今の中国銀行)の設立準備に携っていたのですが、このとき相談をもちかけた一人が渋沢栄一であり、2人が知り合うきっかけとなったようです。

 ただし、2人の関係が本格的に深まったのは、渋沢栄一が69歳で実業界を引退してから。栄一は晩年に『論語講義』という本を残していますが、栄一の論語解釈には、中洲の影響が非常に色濃く出ています。