さて、そんな三島中洲は、明治19(1886)年に、東京で「義利合一」と題した講演を、さらに、明治41(1908)年には、「道徳経済合一説」と題する講演を行っています。後者の講演のさいに中洲は、栄一に「道徳経済合一説」という小冊子も作って、送りました。

 一方で、栄一の方も──中洲のようなわかりやすいキャッチフレーズは作らずとも──まったく同じ考え方を心中抱いていました。ある講演のなかで、こんなことを述べています。

「三島先生が、『道徳経済合一説』という文章を書かれた原因は、明治39年の孔子祭典会での私の演説なのです。わたしはそこで、『実業界より見た孔夫子〔こうふうし〕(孔子の別の呼び方)』という一説を述べました。

 それを三島先生が丁寧に聴かれて、『あなたは実業家であのように言われたが、学者側でも、またこう考えているのだ』といって、この小冊子を下さったのです。私が前に申し述べたのは、実業家側から仁義道徳を論じたものですが、三島先生は、道徳経済の根原について論じられたのです。(中略)

 私が平素、実業側から唱えていた『道徳経済合一説』が、まるでこちらから先方に出向いていったら、先方からも迎えに来てくれて、途中でお互いに会ったような感じがして、ますますこうした考え方の信用を世間で増していくように思われて、自分もとても愉快に感じました」(4)

 お互いジャンルは違えども、同じことを考えていて、しかもお互いの交流の中から、モットー自体が生まれてきた面もあるのだ、というのです。

 こうした経緯を踏まえて、渋沢栄一は、「論語と算盤」「道徳経済合一説」「義利合一」といったモットーを──発案は三島中洲であったとしても──わが物として使っていたようです。

(4) 『渋沢栄一伝記資料』第42巻「竜門雑誌」第340号「竜門社春季総集会に於て」引用者訳。

<連載ラインアップ>
■第1回 道徳と富は相反する? 稀代の企業家・渋沢栄一が説く「道徳経済合一」とは(本稿)
■第2回 なぜ道徳の書で「商人の才覚」が学べるのか?渋沢栄一が語る「士魂商才」とは(10月22日公開)
■第3回 自分ではどうにもできない…逆境に立たされた渋沢栄一が考えた「唯一の策」とは?(10月29日公開)
■第4回 「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法(11月5日公開)

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