埼玉大学経済経営系大学院 准教授の宇田川 元一氏(撮影:榊水麗)

 組織における「分かり合えなさ」「問題の分からなさ」を一貫して問い続けている経営学者、埼玉大学経済経営系大学院准教授の宇田川元一氏。2024年6月に出版した『企業変革のジレンマ「構造的無能化」はなぜ起きるのか』(日本経済新聞出版)では、企業変革に際して立ちはだかるさまざまなジレンマと、そのジレンマが生じるメカニズムを解き明かし、論じている。とりわけキーワードとして登場するのが、組織の機能低下を指す「構造的無能化」だ。企業の経営状況が明確に悪化する前、いわば「慢性期」に起きるという「構造的無能化」とはどういった現象で、乗り越えるために求められることとは何か。同氏に尋ねた。

「慢性期」における企業変革に特有の難しさ

――『企業変革のジレンマ』では、一般的な企業変革論と異なる点として、「急性期」ではなく「慢性期」における問題に焦点を当てています。

宇田川 元一/埼玉大学経済経営系大学院 准教授
1977年東京生まれ。専門は経営戦略論・組織論。早稲田大学アジア太平洋研究センター助手、長崎大学経済学部准教授、西南学院大学商学部准教授を経て2016年より埼玉大学大学院人文社会科学研究科(通称:経済経営系大学院)准教授。企業変革、イノベーション推進の研究を行うほか、大手企業やスタートアップ企業の企業変革アドバイザーも務める。主な著書に『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』(NewsPicksパブリッシング)、『組織が変わる──行き詰まりから一歩抜け出す対話の方法2 on 2』(ダイヤモンド社)がある。2007年度経営 学史学会賞(論文部門奨励賞)、日本の人事部「HR アワード2020」書籍部門最優秀賞受賞(『他者と働く』)。

宇田川元一氏(以下敬称略) これまでの企業変革論といえば、『V字回復の経営』(三枝匡著/日本経済新聞出版)やジョン・コッターの『企業変革力』(ジョン・コッター著/日経BP)などがよく知られています。どちらも、大きな示唆を与えてくれる名著であることは間違いありません。

 ただし、これらで書かれている理論は、人間でいえば症状が悪化した「急性期」の経営危機に対するアプローチです。このような急性期においては「善」と「悪」が比較的はっきりしており、変革に対して組織内でのコンセンサスが形成されやすい状況にあります。

 でも、本来は急性期に陥らないように、日ごろから生活習慣を改善する方が経営的には正しいですよね。本書では、その慢性期における問題にフォーカスし、解き明かそうと思いました。

 ただ、この慢性期の状態は急性期と異なり、経営危機のような業績の悪化はないが、既存事業の他に新しい事業が生まれなかったり、じわじわと業績が悪化したりという状態を指します。いわば「何が問題かが分からない」状態で、しかも、既存事業がまだ事業としては成り立っており、それほど業績が明確に悪いわけでもない中で行わなければならない平時の変革なのです。この状況では、どうしても既存事業が優先され、変革的な取り組みに対して納得感が低い状態で変革を進めなければならないのが、慢性期における企業変革の特有の苦しさです。

 例えば、経営層が「わが社でも将来に向けて新規事業をつくらねば」と考え、新規事業開発の部署を新設する。でも、事業部門にいくら呼びかけても、社員にとっては「提案してもどうせ実現されない」ということを何度も見てきているため手を挙げたがりません。また、その上司からすると、予算達成に追われている中で人を出すことは難しい。そうなると、いくら呼びかけても動かないということはよくあります。

 やがてその会社では「この問題の原因は社内風土にある」と考えるようになる。そしてコーポレート部門が打開策として「個人のパーパスを策定しましょう」「部下全員と1on1してください」などといった施策をやらせようとする。すると今度は役員や事業部長のスケジュールが1on1だけで1週間潰れてしまうことになり、実際にはやらなかったり、やったとしても、あまり身の入らないものになる。役員や部長からすれば、自分たちの困っていることと接点のないことを本社のコーポレート部門にやらされている感覚になり、本社との間にコンフリクトが生じる。そしてますます変革は遅滞する――こういった状況の中で、慢性疾患のような症状が少しずつ悪化していく。つまり、その企業で現在まで取り組んでいて、達成しなければならない目標と、長期的な変革との間にあるジレンマを乗り越えることができず、変革が停滞して進まないのです。

――確かにこのような状況はあらゆる組織で起きているように思います。

宇田川 だからといってそのまま放っておくと、気づいたら急性疾患に陥ってしまうかもしれない。そうでなくとも、仕事のやりがいや楽しさは失われていってしまうでしょう。この問題は本当に深刻だと思っています。

 今回の著書『企業変革のジレンマ』では慢性期の企業変革に伴う諸問題がどのような構造で起きているのかを解き明かすことが、経営層の方々にとって変革を進める助けになるのではないかと思い、執筆を進めました。

 構想から本の形にするまでに3年を要しましたが、これまでの著書に比べて経営層、役員層の読者が明らかに増えています。ある大手企業の役員の方からは「うちの会社を隠しカメラで見られているようだ」といった反応を頂きました。