1995年に設立され、日本における不動産ファンドビジネスの先駆者として急成長したケネディクス(旧 ケネディ・ウィルソン・ジャパン)。2004年に東証一部上場を果たし、最盛期には時価総額2000億円を記録した。しかし、2008年のリーマン・ショックを境に株価が急落し、倒産危機に直面する。苦難の2年間をいかにして乗り越え、生還を果たしたのか──。2024年6月、書籍『100兆円の不良債権をビジネスにした男』(プレジデント社)を出版したケネディクス元代表取締役社長の川島敦氏に、不動産ファンド業界に飛び込んだ理由と、経営危機に直面した当時の対応について聞いた。(前編/全2回)
■【前編】株価80分の1、倒産寸前から奇跡の生還 リーマン・ショックに直面したケネディクス社長の「意外な初動」(今回)
■【後編】三井住友銀からの巨額融資140億で危機脱出、ケネディクス元社長・川島敦氏が「有事から得た教訓」
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米国流「不動産ファンドビジネス」に感じた可能性
──著書『100兆円の不良債権をビジネスにした男』では、川島さんがケネディクスの前身であるケネディ・ウィルソン・ジャパンに転職した2000年ごろの出来事が書かれています。三菱商事から安田信託銀行に転職し、さらにケネディ・ウィルソン・ジャパンに移り「未知のビジネス」に挑戦する、その原動力は何だったのでしょうか。
川島敦氏(以下敬称略) 一番の原動力は「好奇心」ですね。安田信託銀行では不動産ビジネスについて一定の経験を積んだつもりでした。しかし、ケネディ・ウィルソン・ジャパンに出向したとき、米国流の不動産ファンドビジネスに新たな可能性を感じたのです。
「米国流の不動産ファンドビジネスが、日本の旧態依然とした不動産業界の慣習を変えるかもしれない」「変わるのならば、それを自分の目で見たい」と思いました。
それまでも、転職の際は得るものと失うものを比較して「得るものが多そうだ」と感じれば、転職を決断していました。仮に失敗したとしても、また元の業界に戻ればいいと思っていましたね。
──米国流のビジネスモデルが日本国内で広まる、という確信はどの程度あったのでしょうか。
川島 成功の確信はありませんでしたが「面白そうだな」と思いました。当時の不動産ファンドビジネスは、アメリカでも良い時期と悪い時期を経験してようやく一つのサイクルが終わった段階です。一方で、日本国内ではほとんど事例がありませんでした。
それでも、三菱商事時代の上司で、ケネディ・ウィルソン・ジャパンのトップを務めていた本間良輔氏の話を聞いた時、「銀行で悠長に仕事をしている場合じゃない」と居ても立ってもいられなくなったのです。
初めのうちこそ安田信託銀行からの出向という形を取りましたが、ケネディ・ウィルソン・ジャパンでの仕事は毎日刺激的で、安田信託銀行に戻る気はすぐになくなりました。
出向契約の満了まで半年を残したところで退職を切り出し、役員と何度も話し合いを重ねて、最終的には「不動産ファンドビジネスで得たノウハウを優先的に安田信託銀行の若手に伝授すること」を条件に顧問契約を締結し、ようやく転職が許されました。