義務教育の表現系科目で何を教えるべきか?

 これらの一つひとつ、国難というべき深い問題が背後にありますので、今回はその中でも「表現系3科目」として「体育」「美術/図画工作」「音楽」について、かつて国立大学時代の東京大学教官有志で取りまとめた「指導指針案」を紹介しておきます。

 念のため、私は指定国立大学法人・東京大学の中で、現時点では唯一の音楽実技の教授職であることも付記しておきます。

 以下はかつて2003~04年にかけて東京大学教養学部、「駒場キャンパス」で体育(身体運動科学)の先生が中心となって検討した結果をまとめたものです。

◎ 義務教育における体育とは・・・トップアスリートを育てる必要はなく・・・自身の身体をもって、生涯にわたって世界と関わり合うのに必要な叡知を身につけさせること:人生最後の10年ほどを寝たきりなどで過ごす、今現在の日本人が標準的に陥っている状況を打破、克服すること。

 これを全国民に教えることで、国家100年の計を考えたとき、30年後50年後の「寝たきり老人」割合を有為に減らすことができる。

 そういうカリキュラムに全部改めつつ、スポーツの楽しさやチームワークの喜びなどを織り込んでいくのが正解でしょう。

 子供から「なぜ必要?」と訊かれたら逆に、「君は年寄りになってから、早くから寝たきりの生活で晩年の人生を送りたいか?」と訊いてみたらよろしい。

 きょとんとした顔をされることが実際には少なくありませんでしたが、要するに子供は目の前の狭い範囲しか見ていない。

 3年先5年先も考えないから、50年60年先、自分の晩年に向けて生活習慣をコントロールするなんて考えていないのが普通です。

 だからこそ、教育に意味がある、価値がある。世の中をしっかり見ることで、子供は目が覚めてくるものです。

◎ 義務教育における美術とは・・・絵の上手な生徒を育てる必要はなく・・・世界の見方、情報との触れ合い方の本質を身につけさせること:インターネットなどがもたらす錯覚情報に惑わされず、生涯通用する「正見」をもって、事物を見通す視座を与えること。

 このポイントは20年を経た今日、生成AIが日々自動生成するフェイク、詐欺情報を見破るのに、ますますもって必要性が増しています。正確な見方であったといえるでしょう。

 ちなみに「絵を描く」に言及がないと思われるかもしれませんが、東京藝術大学美術学部の教員の多くが「きちんと見れていたら、描ける。描けないというのは、見えていないということだ」という、奥深い真理を語ってくれます。

 その程度まで突き抜けた経験を持った人が指導すれば、また結果は違ってくるものです。

◎ 義務教育における音楽とは・・・歌や楽器の上手い子を育てる必要はなく・・・世界への耳の澄ませ方、意識するより先に意思決定を左右する音の情報の強さ、恐ろしさなどをきちんと理解すること。

 これもフェイク情報が氾濫する生成AI期、最も必要とされる分別です。

 ちなみに音楽実技の教官、あるいは一作曲家として断言しますが、きちんと聴こえていたら作曲できます。できないということは、聴き取れている内容が貧弱だということです。

 念のために申し添えますが、以前私は、東京藝術大学で「ソルフェージュ」という科目を担当していました。職業的な実技は、求められる厳しい水準があります。

 プロに求められるのは「涼しい耳」を持っていること、自分のパートを演奏しながら、頭上3メートルから周囲をクリアに聴く「ソルフェージュ」があるか、ないかが、プロとそれ以外の分かれ目になる。

 逆の例を挙げるなら、カラオケで独り気持ちよくなっている酔客を想像されたらよろしい。

 何も聴いていない・・・。特に自分が出している音を聴いていない。素人の特権であり、そんなものを商売モノとして人さまに聴かせちゃだめだということです。

 でも、こんなテクニックは一般のリスナー、音楽ファンに必要な内容ではありません。プロ向けにはプロ向けの厳しい内容があります。その中途半端なマネをしても生兵法は怪我のもとにしかなりません。