看板が取り外されたジャニーズ事務所本社ビル(写真:時事)

 今年3月の英BBCから始まった一連のジャニーズ報道まで、「日本の芸能界やマスコミはジャニーズに征服されていた」と言っても過言ではない。そんなジャニーズ事務所も、1980年代前半のたのきんトリオの成功あたりまでは、経営難に苦しむ時期もあった。

 いかにして、ジャニーズ事務所はわずか数十年でこれほど巨大な存在になったのか。『ジャニーズ61年の暗黒史 新ドキュメントファイル』(青志社)の著者で、1960年代後半から集英社の情報誌の編集部でジャニーズの企画を数多く手がけた、ジャニー喜多川・メリー喜多川両氏をよく知る作家の小菅宏氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──森且行さんがSMAPを脱退してオートレースの道へ転向した時に、メリー喜多川氏が激怒したことについて書かれています。森且行さんのSMAP脱退は、メリー喜多川氏にどんな衝撃を与えたのでしょうか?

小菅宏氏(以下、小菅):すごい衝撃だったでしょうね。

 SMAPはデビュー後、最初の1年はあまり売れませんでしたが、フジテレビのドラマに出た木村拓哉の人気が出始めた。そして、誰が続くのかという時に、稲垣吾郎がフジテレビのバラエティ番組で「被り物」をやった。

 でも、ジャニーズ事務所には、「被り物はご法度」という知られざる決まりがあります。ちょうどジャニーさんが、その日の撮影を見に来ていたので、慌てたプロデューサーの指示で、スタッフが被り物をやめさせようとしました。

 そうしたら、ジャニーさんが「かまわないんじゃない」と言って、そのまま進めることを許したそうです。それで、被り物をかぶった姿がオンエアされ、結果的に稲垣の人気が出た。この辺が、SMAPの人気が出始めた最初の頃だったと思います。

 その後、木村はドラマ、稲垣や香取はバラエティ、中居はもう少し違った面で注目を集め始めました。やがてSMAPは爆発的に人気になり、ジャニーズ事務所やジャニー喜多川といえばSMAPという印象がついた。

 残された森且行は、実はジャニーさんがSMAPの中心と考えていた存在でしたが、少しシャイでどこか積極性に欠ける森は一歩出遅れた感があり、本人も焦りを感じていました。

 そんな時に、本でも触れたように、NHKの大河ドラマ「秀吉」(1996年)の森蘭丸役に森且行が選ばれるという話が出たのです。森はここで一発逆転を想像したでしょうが、なんと同じ事務所のTOKIOの松岡昌宏がこの役をやることになった。

 これはNHKからの指名でしたが、森はジャニーさんとメリーさんの判断だと受け取ったようです。

 他の事務所の俳優に役を取られたのであれば、まだあきらめもついたのかもしれませんが、同じ事務所の後輩に取られたのは相当ショックだった。また、名前は言いませんが、当時ある女性タレントとの恋仲になっており、森は悶々としていた。そのタイミングで、もともと好きだったオートレースの試験を受けに行ったようです。

 ようやく売れ始めてきて、これからというタイミングだったし、宣伝費なども含め、事務所はたくさんSMAPに投資していましたから、メリーさんの怒りはすさまじいものでした。ある著名な作曲家が森の脱退を手助けしたこともメリーさんのプライドをいたく傷つけたようです。

──ジャニー喜多川氏のもとには、入所希望者の少年たちの顔写真が、毎日段ボール箱が満杯になるほど届き、ジャニー喜多川氏がそれを見る時間をとても楽しんでいた、と本書には書かれています。「この写真選びが最上の愉しみ」と喜多川氏が語ったとのことですが、その時のことを教えてください。