阪神・淡路大震災の頃、日本は若い国だった

 阪神・淡路大震災の頃、日本は若い国だった。日本全体の高齢化率は14.6%、神戸市は13.5%だった。日本社会の中核とも言える団塊世代は40代だった。

 当時、私の母は阪神間で、実の母(私にとっては祖母)と暮らしていた。母は50代半ば、「寝ていたら、地面が真下に落ちた。この世の終わりと思った」という。震災当日、母と祖母は地元の避難所で過ごし、祖母は被害が軽微だった末娘(母の妹)が引き取った。母は、京都で大学生活を送っていた弟の所に身を寄せた。

 余談だが、この時、母を支えてくれたのが、旧知の松川るい参議院議員のご両親だった。奈良県在住で、震災の影響は軽微だった。「荷物の保管から、身の回りの世話まで、色々とお世話になった」という。困った時はお互い様というが、実際に救いの手を差し伸べてくれる人は少ない。松川夫妻には、いくら感謝してもしたりない。

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 母も松川夫妻も戦前世代だ。戦前、戦後をお互いに助け合いながら生き延びてきたのだろう。震災時の行動は戦前世代の思考法を反映している。母は、松川議員の支援者だ。彼女の選挙区は大阪府で、母には選挙権がないのに、「枯れ木も山の賑わい」と集会に足繁く出かけていく。

 話を戻そう。私が母の行動で興味深く感じているのが、被災した自宅を自分で建て直したことだ。小さな家なのに、「余震が怖い」と鉄筋鉄骨の三階建てとした。費用は数千万円かかったはずだが、銀行から借りて自力で返済した。母は長らく専業主婦だった。1985年(昭和60年)に夫を病気で亡くして以降、働きに出ていた。彼女の収入から考えれば、大きな負担だった。現在、80代の母は、「若かったからなんとかなった」という。

 当時、日本は若かった。若ければ、被災してもなんとかなる。自力で復興するのだ。

被災地高齢者の命を奪う「誤嚥性肺炎」

 では、東日本大震災当時はどうだったろう。阪神・淡路大震災から16年が経っている。この年の日本の高齢化率は23.3%だ。現在のイタリア(24.1%)より若く、独(22.4%)、仏(21.7%)よりやや高いくらいだ。

 実は、当時の被災地の多くも、そんなに高齢化は進んでいなかった。医療ガバナンス研究所が活動の拠点を置いている福島県相馬市の2010年の高齢化率は25.3%だった。福島第一原発が位置した大熊町も21.0%だ。現在の日本の高齢化率(29.1%)よりもはるかに低い。

 福島県浜通りで何が起こったのか。医療ガバナンス研究所は、東日本大震災から13年間、相馬市など福島県浜通りでの活動を継続している。被災地で起こったことのおおよそを理解している。

 東日本大震災直後、相馬市では死亡者数が急増した。2017年10月、相馬中央病院の森田知宏医師を中心とした研究チームは、厚労省が管理する人口動態調査を使って2006年から15年までの相馬市と南相馬市で死亡した住民の死亡原因を調べ、その結果を英国の『疫学・コミュニティヘルス』誌に発表した。

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