高知県立牧野植物園牧野富太郎記念館本館(写真:663highland, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

 朝の連続ドラマ「らんまん」のモデルになった日本を代表する植物学者、牧野富太郎。小学校中退という学歴にもかかわらず独学で植物学を究め、日本の植物学に燦然と輝く『牧野日本植物図鑑』を世に出した。94歳で没するまで、植物と学問を愛し続けた偉人である。

「らんまん」は幼少期が終わり、物語は青年期に移ったが、なぜ学歴がないにもかかわらず東京大学に籍を置くことができたのだろうか。

(大場 秀章:東京大学名誉教授)

(*)本稿は『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

 初めての上京で目にした東京は、自分の想像をはるかに超えていた。しかしながら百聞は一見に如かず。故郷に戻ってからの富太郎は、東京で植物学の研究に勤しむ自分と、あくまでもひとりの植物愛好家として佐川で岸屋(※)の経営を引き継ぐ自分を現実的に比べることができた。祖母の浪子の期待通りに岸屋を選ぶか、それとも郷里も岸屋も捨てて、東京に出て植物研究の道を邁進すべきかの二択である。

※岸屋…富太郎の生家である造り酒屋の名前

 富太郎がその選択に悩む一方で、祖母の浪子は彼の結婚を考えていた。相手は、従妹の牧野猶(まきの・なお)。いうまでもなく、彼に岸屋を継がせるためである。富太郎を郷里に留め置く方法は、これ以外には考えられなかったのだろう。

 結婚が成立すれば、岸屋は安定し、その後もずっと続くだろう。それは浪子の悲願だった。同時にこの婚姻は、植物学者としての富太郎の将来を否定するものでもあった。富太郎は、できることなら祖母の期待に応えたかった。がしかし、植物学者としての将来を捨てることは彼にはどうしても考えられなかったのである。

 富太郎はいったんは猶との結婚に同意したものの数年後には離別し、岸屋よりも植物学を、また佐川ではなく東京を選ぶ意思表示をする。明治19(1886)年6月頃、富太郎はようやく矢田部良吉教授(※)を訪ねたのだ。前年9月に神田一ツ橋から本郷本富士町に移転した、東京大学理学部(当時は帝国大学理科大学)での面会だった。初の上京時に田中芳男(※)から矢田部教授宛の紹介状を得てから実に5年の歳月が経っていた。

※矢田部良吉教授…東京大学理学部植物学科の初代教授
※田中芳男…明治政府・文部省博物局の博物局掛だった人物。官僚として、西洋の草花や野菜の栽培研究や目録作成に取り組んだ。「日本の博物館の父」と呼ばれている