友好的関係から推測できるもの

 残念ながら確実な史料は残されていないので、状況証拠から推測していくほかはない。

 永正元年(1504)のことになるが、当時、武蔵の河越城を本拠としていた扇谷上杉朝良は、山内上杉顕定に攻められ、援軍を早雲と早雲の甥にあたる駿河の今川氏親に要請した。この要請に応じた早雲は、氏親とともに扇谷上杉氏を支援し、立河原の戦いで山内上杉氏を破っている。

 一方、このとき大森藤頼はといえば、どういうわけか山内上杉方として動いているのである。そのころにはすでに早雲が小田原城を奪取していたことは間違いない。ただ、扇谷上杉氏とは依然として友好的な関係にあることを考えれば、扇谷上杉朝良の内意を得て攻略したものと理解できる。

 それでも、「火牛の計」は事実とは考えられない。なんとなれば、「火牛の計」は、もとは古代中国の話だからである。中国の戦国時代に、敵に城を包囲された斉という国の将軍田単は、城中の牛1000頭を集めると、角には刃をつけ、尾には葦の束をくくりつけ、火をつけたという。

 そして、この牛を敵陣に突入させ、敗走に追い込んだというのが「火牛の計」である。この故事が、『源平盛衰記』では木曾義仲が採用し、平家を倶利伽羅峠の戦いで破ったことになっている。軍記物語の作者が、『源平盛衰記』を参考に、早雲による小田原城の攻略を脚色したのであろう。そもそも、1000頭の牛を集め、山に解き放つというのは、いかにも効率が悪い。

 もともと、早雲が大森藤頼と通じていたのは確かである。大森氏を支援すると称して軍勢を駐留させ、ある日、突然、乗っ取ってしまったというのが実際のところだったのではあるまいか。早雲が伊豆一国を完全に平定したのは明応7年(1498)のことであり、現在では、明応9年(1500)に小田原城は攻略されたと考えられるようになっている。