「火牛の計」は本当なのか?

 一つは、早雲は、大森氏の主家にあたる扇谷上杉氏とは友好的な関係にあったことである。室町幕府は関東10か国を統治するため相模の鎌倉に鎌倉府をおき、足利将軍家の一族を鎌倉公方とし、関東管領上杉氏に補佐させていた。ただ、上杉氏は一族が分立し、このころは、山内上杉氏と扇谷上杉が2強として互いに争っていたものである。

 ちなみに、「山内」と「扇谷」というのは、鎌倉の邸宅があった地名にちなむ。早雲は伊豆を平定するにあたり、伊豆守護である山内上杉氏に対抗するため、扇谷上杉氏と結んでいた。小田原城を攻撃するということは、扇谷上杉氏とも戦端を開くことになり、そのような不利な戦略をあえて選んだとは考えにくい。

 もう一つは、時期の問題である。『相州兵乱記』では「或時」として年月日は不明とするが、『小田原記』は明応3年(1494)、『喜連川判鑑』や『鎌倉大日記』では明応4年(1495)のこととする。そのため、おおむね明応3年から明応4年におこったとするのが一般的な見方だった。

 しかし、近年、「上杉家文書」によって、明応5年(1496)7月、山内上杉方の軍勢が扇谷上杉氏方の大森藤頼・三浦同寸(義同)・太田資康らが守る「要害」を攻撃したことが明らかにされている。この「要害」が小田原城であるのかどうかは不明だが、小田原城そのものか、そうでなければ、小田原城の主要な支城であったのだろう。

中世小田原城の八幡山古郭。(著者撮影)

 それはともかく、注目すべきことは、この攻防戦において、早雲の実弟弥次郎が大森藤頼に加勢していたことである。それはつまり、兄弟が敵と味方に分かれてでもいない限り、依然として早雲は扇谷上杉氏と友好的な関係にあり、小田原城を攻略する立場にはなかったことを意味する。少なくとも、早雲が明応3年ないし4年に、小田原城を攻略したのは、事実ではない。

 では、いったい早雲は、いつ、どのようにして小田原城を攻略したのだろうか。