北条早雲は戦国初期に名を馳せた、この時代を語るうえで欠かせない武将である。テレビドラマなどでその出自が「一介の素浪人」として紹介されるなど、以降の活躍に比して謎を呼ぶ人物でもある(現在は名門・伊勢氏の出で、備中国の支流の説が主流で、素浪人ではなかった)。そんな早雲にはもうひとつ大きな謎がある。「小田原城攻略」だ。歴史学者・小和田泰経氏が戦国時代の謎を掘り起こし、真相に迫っていく。(JBpress)

「鹿が小田原城の裏山に逃げ込んでしまった」

 現在、小田原駅西口のロータリーには、角に松明をつけた牛を率いる「北条早雲公像」が建てられている。これは、北条早雲が小田原城を奪取したときの姿をとらえたものであり、その典拠となったのが、『北条記』・『北条五代記』など、江戸時代の軍記物語だった。こうした江戸時代の軍記物語は、その内容に差違はあるものの、だいたい次のような顛末として書かれている。

 そのころ、駿河から伊豆に侵入していた早雲は、さらに隣国である相模の西端に位置する小田原城を狙っていた。この小田原城は、相模守護扇谷上杉氏に従う大森藤頼の居城であり、早雲は常日頃から藤頼に対して贈り物を贈るなどして友好的な関係を結んでいたという。

 そして、あるとき、伊豆と相模の国境付近で鹿狩りをしていた早雲が、「鹿狩りをしていたら、鹿が小田原城の裏山に逃げ込んでしまいました。どうか鹿を追い立てるための勢子(せこ)を入れさせて下さい」と申し入れると、藤頼はこれを許可したのである。

 こうして、小田原城の裏山に入ることを認められた早雲は、ただちに数百の家臣を勢子に変装させると、1000頭の牛を追い立て、小田原城の裏山に登らせた。そして、夜になると牛の角に松明をつけ、城内に突入させたのである。

 このとき、藤頼の主家にあたる扇谷上杉定正が、一族の山内上杉顕定と争って軍勢を派遣していたため、城内にはわずかの守兵しかいなかった。そのため、早雲がわずか1夜にして藤頼を追放し、小田原城を奪取したという。

 以上が、江戸時代の軍記物語に依拠した小田原城攻略の顛末であるが、ここで二つの疑問が生じる。