堅牢な雰囲気を漂わせる上田城。果たして真田昌幸はここで何を考えたのか。(著者撮影)

 大河ドラマ「真田丸」で偉大な「知将」として描かれた真田幸村(真田信繁)の父・昌幸。武田信玄、織田信長、豊臣秀吉らに仕え、いずれも重用、または恐れられたと言われている。その原点は、二つの合戦にあるが、果たしてその真偽とは――? 歴史学者・小和田泰経氏が戦国時代の謎を掘り起こし、真相に迫っていく。(JBpress)

2度の上田合戦、その背景

 真田昌幸が知将として知られるようになったのは、なんといっても2度の上田合戦で勝利したことによるものと言っても過言ではあるまい。

 2度というのは、天正13年(1585)と慶長5年(1600)に、上田城を攻められた昌幸がいずれも撃退に成功した合戦を指す。一般的に、天正13年の上田合戦を第一次上田合戦、慶長5年の上田合戦を第二次上田合戦とよぶ。

 第一次上田合戦は、天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が討たれたことに端を発している。信長の死により、武田氏の遺領であった甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)・上野国(群馬県)では武田遺臣による一揆がおこった。その混乱に乗じて徳川家康と北条氏政が併合に乗り出して争った結果、甲斐国と信濃国を徳川家康、上野国を北条氏政が領国としていくという条件で和睦している。

 この争いにおいて、信濃国の上田領を本領としていた昌幸は、上野の沼田領を持っていたことから、北条氏に対抗するため徳川氏に臣従した。そのため、徳川氏と北条氏が和睦すると、沼田領を北条氏に引き渡さなくてはならなくなってしまったのである。これを不服とした昌幸が、家康から離反したため、徳川軍に攻められることになった。

 第二次上田合戦は、慶長5年の関ヶ原の戦い直前におきたものであり、第一次上田合戦とは状況が異なる。関ヶ原の戦いは、会津の上杉景勝に反意があるとして徳川家康が軍事行動をおこしたことがきっかけとなった。このとき昌幸は、長男の信幸と次男の信繁(幸村)とともに会津攻めに向かったものの、下野国(栃木県)の犬伏というところで石田三成の挙兵を知る。そして、親子による話し合いの結果、昌幸と信繁は三成に味方し、信幸だけが家康のもとに参陣した。いわゆる犬伏の別れである。昌幸が西軍についたことで、上田城は中山道を西上する徳川秀忠の大軍に攻撃されることとなった。