この時の本願寺派の挙兵は、信長の上洛以前に京都を支配し、本願寺との結びつきも強かった三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)への支援が目的だったとされます。ここで重要なのは、先にケンカを売ったのは本願寺だったという点です。

信長包囲網に加わるも、再び和睦

 最初の挙兵が和睦ですぐに決着した後、本願寺派は信長に茶器を贈るなど表面上は穏やかな関係を維持しました。しかし1573年、将軍の足利義昭に檄(げき)を飛ばされた浅井、朝倉、上杉、武田、毛利からなる織田信長包囲網が形成されると、本願寺派もこれに参加し、織田家と再び戦火を交えます。

 すでに挙兵していた伊勢(現在の三重)での「伊勢・長島一向一揆」、越前(現在の福井)での「越前一向一揆」とともに、この挙兵は信長を大いに苦しめました。しかし各個撃破戦略をとった信長により、石山本願寺以外の一揆は殲滅され、特に伊勢・長島一向一揆では一揆参加者が根切り(皆殺し)にされるなど、苛烈な処置が取られています。

なぜ信長と戦ったのか

 さて、越前一向一揆で注目すべきは、元々、本願寺派とは敵対していた浄土真宗の別派である高田派が信長の軍に加勢している点です。一向一揆と信長の抗争は、「仏教勢力を敵視していた信長の仏教弾圧政策に対する一向宗徒の抵抗」というように、宗教戦争の構図で見られることが多いようです。しかし現実には、浄土真宗内でも信長に協力する勢力がいたのです。

 また本願寺派側も、信長の弾圧への反発というより、京都を巡る政争、並びに室町幕府という旧支配体制の支援を理由として挙兵しています。信長を仏敵とみなしていることは確かですが、信長との抗争の本来の目的は信仰上の対立というよりも、パトロンであった室町幕府との関係が強く影響していたということです。

 実際に二度目の挙兵でも、信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府を廃止すると、本願寺側は信長に和議を申し出て、信長有利の条件で再び和睦しています。戦況が不利だったこともさることながら、足利幕府滅亡によって大義名分が喪失したからこそ和議を申し出たと考えられます。