清洲公園(愛知県清須市)に建つ織田信長像

 戦国時代における「一向一揆」の実像について、史実および東洋大学・神田千里教授の著書『一向一揆と石山合戦』を基に、筆者の見解を交えて3回にわたって解説しています。

 前回は、戦国時代初期に「一向宗」こと浄土真宗本願寺派が勢力を拡大し、加賀一向一揆で守護大名を撃滅させるまでに至った過程を紹介しました。第2回となる今回は、本願寺派がなぜ戦国大名化し、織田信長と敵対して抗争を繰り広げたのか、その背景と結末について紹介します。

(前回)「極貧寺の蓮如、圧倒的『子だくさん力』でカリスマに」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53853

戦国大名化する本願寺派

 加賀(現石川県)の本願寺派宗徒は1488年の加賀一向一揆(長享の乱)で、当時、守護大名であった富樫政親を自害に追い込み、地元の国人(その領内の住民たち)勢力による半独立自治体制を打ち立てました。

 一般的には、この加賀一向一揆を機に本願寺派が加賀を支配して「百姓の持ちたる国」が成立したと考えられています。

 しかし、日本中世史が専門の東洋大学文学部教授、神田千里氏の研究によると、加賀一向一揆自体は本願寺派の指導層が扇動して引き起こしたものではなく、むしろ富樫氏の支配や弾圧に反発した「本願寺宗徒」の国人らが反乱して起こったものであり、本願寺派がすぐに加賀一国の支配を確立したとは言えなかったようです。

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 では、本願寺派はどの段階で加賀の支配を確立したのか。それを理解するには、本願寺派と足利幕府の関係を見ていく必要があります。

 本願寺中興の祖と呼ばれる8代目法主の蓮如(1415~1499年)は、その縁組政策により幕閣側近との人脈を築いたことで、本願寺派勢力の拡大に成功しました。続く9代目法主の実如(1458~1525年)もこの路線を踏襲し、特に応仁の乱の東軍大将を務めた細川勝元(1430~1473年)の子で「半将軍」と呼ばれるほど権勢をほしいままにした細川政元(1466~1507年)との関係を深めます。

 本願寺とその宗徒は、政元の要求を呑む形で政元の政敵を妨害したり攻撃したりする行動をとっていきます。

 とりわけ象徴的なのは、河内(現大阪府)の武将、畠山義英に対する攻撃(1506年)です。政元は、畠山義英を攻撃する討伐軍に本願寺宗徒を動員させようとしました。実如は政元の要請を受けて、河内の一向宗徒に召集をかけました。ところが地元の利害関係が絡んだことで、河内の宗徒並びに本願寺指導者は拒否します。そこで実如は代わりに加賀の宗徒に動員をかけ、1000人の宗徒を討伐軍に送り込みました。

 筆者は、本願寺派が加賀の支配権を確立したのは、加賀の兵員を動員したこのタイミングだったと考えています。これは同時に、一向一揆衆、つまり本願寺派が戦国大名化したとも言うことができます。実際にこれ以降、本願寺派と、加賀と国境を接する越中の畠山家、越前の朝倉家、越後の長尾家との軍事抗争が活発化していきます。とくに長尾家相手に至っては、上杉謙信の祖父に当たる長尾能景を敗死に至らしめるなど北陸地方で猛威を振るい、他の戦国大名との間で領土争いにしのぎを削ることになります。

信長との抗争の始まり

 時代は下って戦国時代後半、織田信長(1534~1582年)は室町幕府15代将軍・足利義昭(1537~1597年)を奉じて京都への上洛を果たします(1568年)。

石山本願寺の推定地(出所:Wikipedia

 このときすでに本願寺は京都・山科から大坂・石山(=石山本願寺)へと本山を移していました(1533年)。

 本願寺派は、当初は信長からの軍事資金提供命令にも素直に従うなど、従順な姿勢を示していました。しかし1570年、突如として牙を剥き、織田軍への攻撃を開始します。10年にわたる「石山合戦」の幕開けです。本願寺派の挙兵は信長にとっても想定外の事態だったらしく、慌てて朝廷に働きかけ、開戦からわずか1カ月で和睦に持ち込んでいます。

 この時の本願寺派の挙兵は、信長の上洛以前に京都を支配し、本願寺との結びつきも強かった三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)への支援が目的だったとされます。ここで重要なのは、先にケンカを売ったのは本願寺だったという点です。

信長包囲網に加わるも、再び和睦

 最初の挙兵が和睦ですぐに決着した後、本願寺派は信長に茶器を贈るなど表面上は穏やかな関係を維持しました。しかし1573年、将軍の足利義昭に檄(げき)を飛ばされた浅井、朝倉、上杉、武田、毛利からなる織田信長包囲網が形成されると、本願寺派もこれに参加し、織田家と再び戦火を交えます。

 すでに挙兵していた伊勢(現在の三重)での「伊勢・長島一向一揆」、越前(現在の福井)での「越前一向一揆」とともに、この挙兵は信長を大いに苦しめました。しかし各個撃破戦略をとった信長により、石山本願寺以外の一揆は殲滅され、特に伊勢・長島一向一揆では一揆参加者が根切り(皆殺し)にされるなど、苛烈な処置が取られています。

なぜ信長と戦ったのか

 さて、越前一向一揆で注目すべきは、元々、本願寺派とは敵対していた浄土真宗の別派である高田派が信長の軍に加勢している点です。一向一揆と信長の抗争は、「仏教勢力を敵視していた信長の仏教弾圧政策に対する一向宗徒の抵抗」というように、宗教戦争の構図で見られることが多いようです。しかし現実には、浄土真宗内でも信長に協力する勢力がいたのです。

 また本願寺派側も、信長の弾圧への反発というより、京都を巡る政争、並びに室町幕府という旧支配体制の支援を理由として挙兵しています。信長を仏敵とみなしていることは確かですが、信長との抗争の本来の目的は信仰上の対立というよりも、パトロンであった室町幕府との関係が強く影響していたということです。

 実際に二度目の挙兵でも、信長が足利義昭を京都から追放して室町幕府を廃止すると、本願寺側は信長に和議を申し出て、信長有利の条件で再び和睦しています。戦況が不利だったこともさることながら、足利幕府滅亡によって大義名分が喪失したからこそ和議を申し出たと考えられます。

義昭の呼びかけに応じて三度目の挙兵

 二度目の和睦の翌年に当たる1576年、本願寺派は、中国地方の毛利家に身を寄せた足利義昭の呼びかけに応じ、信長に対して三度目となる挙兵を行います。この三度目の挙兵では毛利家と同盟を結び、石山本願寺を中心に戦闘を展開しました。かの有名な鉄甲船が登場する「木津川口の戦い」もこの戦役に含まれます。

 この時の挙兵の理由も、信長への憎悪がなかったとまでは言いませんが、前将軍である足利義昭の呼びかけに応じたものだった点は見逃せません。前述した通り、本願寺は室町幕府との親密性を糧に勢力を拡大してきた歴史があります。信長との対立は、室町幕府支持の延長線上にあったと言っていいでしょう。

 しかしこの三度目の挙兵でも、ほぼ天下を手中にしつつあった信長の前に戦況は挽回できず、1580年には朝廷が仲介する形で、本願寺派が石山を退去することなどを条件に和睦が結ばれます。この時の和睦は信長側からの提案とされますが、実態としては本願寺からの申し出によるものだったようです。

 信長もかつての伊勢・長島一向一揆の時とは異なり、本願寺一派の皆殺しは行わず、一部条件でこそ違約したものの、本願寺一派を赦免しています。このような和睦に至ったのも、もはや天下の趨勢が室町幕府から信長政権に移ることがほぼ確実となったことを本願寺派側が認識したのかもしれません。ある意味、本願寺派は中央政権の動きに非常に敏感な勢力であったと言えるでしょう。

 こうして途中で何度か中断こそあったものの、10年もの長きにわたる石山合戦は終わりました。最終回となる次回は、その後の本願寺派の動向と、東西分裂へと至った過程について取り上げます。

(参考文献)『一向一揆と石山合戦』神田千里著、2007年、吉川弘文館発行