ペリー提督来航記念碑(函館市) 写真/アフロ

 

●ペリー来航170年ー日米和親条約で開国したのか①
●ペリー来航170年ー日米和親条約で開国したのか②

(町田 明広:歴史学者)

日米和親条約の締結とその内容

 嘉永7年(1854、11月27日に安政に改元)1月16日、ペリーは前年に続いて、2回目の来航を果たした。その後、オランダ語を介して交渉が重ねられ、3月3日に至って日米和親条約がペリーと日本側全権の林復斎との間で締結された。

 主な内容としては、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、そして、アメリカへの最恵国待遇であった。開港というと、まるで開国したような印象を受けるが、そうではない。日本中のすべての港で物資の供給などをすることは不可能であり、そのため、この2港を指定したという意味合いである。開港というよりは、寄港を許したとする方がより正確であろう。

 また、アメリカ人の行動の自由が保障された。しかし、行動範囲は厳しく指定されたため、これをもって外国人の国内への侵入を許すことになったわけではない。あくまでも、物資の供給を受けるための一時的な滞在を認めただけであり、恒久的な居住を認めたわけではないのだ。この点は、極めて重要である。