中野氏は大八木氏同様、人生ではずいぶん苦労している。出身は北海道東部の白糠(しらぬか)町という、太平洋沿岸の小さな町で、牧畜、農業、漁業が主要産業である。農家の4人兄弟の3男で、高校1年生のときは指導者がいたが、それ以降は自分で練習方法を調べてトレーニングを続け、1500m障害でインターハイに2年連続出場した。5000mは15分40秒程度で、高校ランキングでは100位にも入っていない。

 高校を出ると、実家が農家で経済的にあまり余裕がなかったので、色々な奨学金をもらえる国士舘大学に進学した。この時、農業高校を出て実家を継いでいた長兄が「孝行を大学に行かせてやってくれ」と父親に頭を下げたという。

 大学では10人の同期のうち10番目のタイムだったが、「もっと上に這い上がりたい」という強い気持ちを持ち続け、箱根駅伝には4年連続出場し、2年生と4年生のときはエース区間の2区を任された。雪印乳業に就職して約10年間競技を続け、全日本実業団駅伝に出場したり、東日本縦断駅伝(旧・青森東京駅伝)で何度か区間賞も獲ったりしているが、故障の連続で目立った結果は残せていない。

どん底も経験した指導者人生

 現役引退とほぼ同時期に女子の長距離の強豪チームだった三田工業のコーチとなり、指導者の道を歩み出す。ところが3年後に会社がいきなり倒産。結婚して間もないときに失業者になって、雪印乳業時代に住んだことのある西船橋に戻った。アパートを探しているとき不動産屋に「職場から近い方がいいでしょう」言われ「今は無職です」となかなか言い出せなかったという。新聞で就職口を探し、船橋市の臨時職員の募集を見つけ、他の業務より時給が300円よかった小学校の特別支援学級の介助職員になった。その間も、陸上競技の指導者として復帰することを目指し、競技会があれば足を運び、知見を磨き、人脈を維持した。

 三田工業が倒産してから1年1カ月後の1999年9月、NECの男子陸上競技部のコーチに招かれ、現在は俳優となった和田正人氏らを指導した。ところが2003年に部が廃部になり、再び競技から離れ、障がい者雇用のために設立されたNECフレンドリースタッフという会社の契約社員となり、2年半働いた。

 中野氏が帝京大学の監督になったのは、2005年11月、42歳のときである。中野氏を推薦したのは前述した順天堂大・澤木啓祐氏だった(日本陸連の副会長も務めた澤木氏は陸上界で強力なネットワークを持っており、同氏の推薦や紹介で監督やコーチになった人は、現・山梨学院大学の上田誠仁監督や白鴎大学の竹島克己監督をはじめ、数十人は下らないと思われる)。

 その年、帝京大学は予選会12位で、箱根駅伝の出場を2年連続で逃した。翌年は予選会2位で3年ぶりに箱根路に復帰し、本番では8位に入ってシード権を獲得した。翌2009年は8~10区の不振で20位に沈み、この年から4年間シード権から遠ざかったが、2013年には史上最高の4位に躍進した。2019年に5位、2020年は再び4位と好成績を残した。