14世紀に天皇家は2つに分裂した。それぞれの天皇家を旗印として展開された大規模な動乱の時代を南北朝時代という。京都の北朝に対して、吉野など近畿南部の各地を転々としたもう一方の朝廷が南朝である。南朝が、幕府と対立しつつも延命を続けた理由とは何だったのだろうか。(JBpress)

(※)本稿は『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(森茂暁著、講談社学術文庫)より一部抜粋・再編集したものです。

系統の初代、持明院統と大覚寺統

 日本の中世は分裂と抗争の時代といって過言ではない。いろいろな階層、さまざまな場所において種々の分裂と抗争が生起し、それが歴史を推進する原動力となった。分裂と抗争は天皇家にも当然波及した。鎌倉時代の中ごろに天皇家は大きく二つの系統に分かれる契機に遭遇した。

 この二つの系統の初代は兄弟の関係にある。二つのうち、兄の系統を持明院統(じみょういんとう)と称し、弟の系統を大覚寺統(だいかくじとう)と称している。

 14世紀の南北朝時代に南朝と呼ばれた天皇家のルーツをたどってゆくと、直前に建武の新政を担当した後醍醐天皇が位置し、さらにその先には鎌倉時代に大きく二つに分かれた天皇家の一流、大覚寺統という門流に行き着く。

生まれた確執

 皇統が持明院統と大覚寺統の二流に分かれる契機は文永9年(1272)2月の後嵯峨院の薨去にあったが、皇位をめぐる両統の抗争はただちに開始されたのではない。皇位の獲得は治天の権の掌握を意味し、自統の繁栄に直結したから、両統がそれぞれ皇位の獲得に多大の期待を寄せたのは無理からぬところである。

 ポスト後嵯峨の地位は、後嵯峨院の遺詔なるものに懸けられたが、後嵯峨の素意は亀山天皇にありとする不確かな情報によって亀山天皇の治世と決したことが、後深草院の不満を募らせた。両統間で対立という現象が明確に現れるのは弘安年間の末まで下る。これを対立の第一段階とみた。

 両統の対立に拍車をかけたのが鎌倉幕府であった。本来鎌倉幕府は両統の間の調停者的な立場にあり、皇位問題については朝廷内部で自ら決着をつけることを望んだが、幕府が京都の問題に首を突っ込みすぎたことが、結果的に幕府を皇位問題から離れられなくした。

 また皇位問題への幕府の姿勢については、すでにこの時期に両統の不断絶を基本方針としていたことに留意すべきである。

 以降の朝廷と幕府との関係を考えるとき、このことは問題の核心をなそう。こうして始まった幕府を巻き込んだ両統の皇位争奪戦は、さまざまな歴史的経過をへて、深刻化と複雑化の途をたどることになる。