泉岳寺(東京都・高輪)にある「忠臣蔵」の主役、大石内蔵助の銅像

(花園 祐:上海在住ジャーナリスト)

 日本史における10大ミステリーを2回にわけて紹介しています。前回(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59526)は、原始時代から戦国時代にかけてのテーマを5つ取り上げました。今回は、江戸時代から近現代にかけての残りのミステリーを筆者の見解とあわせて紹介します。

【6】忠臣蔵の真相は「キレやすい30代」?

「この間の遺恨、覚えたるか!」といえば、講談の「忠臣蔵」に取り上げられた「赤穂事件」を象徴するセリフの1つです。この事件で、浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が江戸城内で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りかかった理由や原因は、当時から現代に至るまで議論の尽きないテーマの1つとなっています。

「忠臣蔵」の中では、付け届けの少なさに腹を立てた吉良上野介から陰険ないじめを受け、浅野内匠頭が耐えかねた末の犯行とされており、現在もこの説が主流です。このほか、勅使饗応(ちょくしきょうおう:皇室の使者を接待すること)における予算方針などをめぐる対立も指摘されており、一概に「いじめ」だけが原因であったかについては議論が分かれています。

 かつては、赤穂藩の塩の製法を浅野内匠頭が教えず、吉良上野介が逆恨みをしていじめたという説もありました。しかし当時、赤穂藩の塩の製法は他藩にも普及しており、吉良上野介の領地にも塩田はなかったことから、現代ではこの説はほぼ否定されています。

 ただどんな背景があったにしろ、江戸城内で刃傷沙汰に及ぶというのはあまりにも思慮に欠けた行動と言わざるを得ません。となると最大の原因は、浅野内匠頭が「キレやすい30代」であったということに尽きる気がします。