ノルマン人によるイングランド征服

 カヌートが亡くなると、イングランドの王になったのは、あの無思慮王エゼルレッドの息子で、幼少期にノルマンディーに亡命していたエドワードでした。長年ノルマンディーでの亡命を送っていた彼は、国内の有力貴族の影響力を排除するためにも、宗教や政治の要職にノルマン人を重用し、イングランド人貴族の反発を招いてしまいます。

 エドワード王は、妻との間に子どもがいませんでした。となると当然ですが、王の後継者を巡り揉めることになります。エドワードは、ノルマンディー時代に身を寄せていたノルマンディー公であるギヨームに後継を打診していました。エドワードの母エマは、ギヨームの祖父の妹でしたので、そういう意味ではギヨームはイングランド王室と血縁で結ばれていたのです。

 ところがエドワード王が亡くなると、貴族らに推され、ウェセックス伯ハロルドが戴冠。そこで異議を唱えたのかノルウェー王ハーラルとノルマンディー公ギヨームです。こうして王位を巡る三つ巴の戦いが始まります。

 最終的にこの戦いに勝ったのはギヨームでした。彼はイングランド王「ウィリアム1世」となり、ノルマン朝を開きます。これが世に言う「ノルマン・コンクェスト」(ノルマン征服)です。

 ノルマンディー公国というのは、フランスに侵入したノルマン人が統治する地域で、イギリス海峡を挟んでイギリスと向き合う場所に位置していました。その当主・ノルマンディー公はフランス国王の家臣という立場になります。

 ところがノルマンディー公であるウィリアム1世は、フランス国王の家臣でありつつ、イングランドの王でもある、ということになります。この強大化したノルマンディー公の力に、フランス国王が警戒心を高めるのは当然のことでした。

 また、イングランド国内では、ウィリアム1世による征服王朝に対するアングロ・サクソン貴族の反乱も相次ぎました。

 ウィリアム1世はこれを平定すると、反乱を起こした貴族の領地を召し上げ、ノルマンディー出身の貴族に与えます。こうして、アングロ・サクソンの人々が統治していたイングランドに、新たな支配者層としてフランスからノルマン人がやってきたのが「ノルマン・コンクェスト」なのです。

 さらにノルマン朝では、公用語はノルマン人が使うフランス語とされ、英語は民衆が使う言葉とされました。そのため、英語にもフランス語の語彙が入り込むこととなり、英語は大きく変化したのです。

 ノルマン・コンクェストは、イングランドの歴史の分水嶺です。それまでのイングランドの社会は、アングロ・サクソン人が築き、デンマークの影響を受けたものでしたが、このときを境にフランスの影響を強く受けるようになったからです。

征服王朝がつくった中央集権制

 またノルマン朝は、征服王朝だったため、ウィリアム1世は統治方法の整備に乗り出します。これ以降、フランスやドイツと比べても国王の権力が強い中央集権的な国家へと変わっていくのでした。

 これは、その後のイギリスに決定的な利益をもたらすことになります。近代国家とは必然的に中央集権的でなくてはならないのですが、イギリスは中世においてその形成に成功していたと言えるのです。