では、イングランドの中央集権化はどのように進められたのでしょうか。

 ウィリアム1世は征服地をノルマン人貴族に分配しただけではなく、彼に忠誠を誓ったアングロ・サクソン人貴族の土地もいったんは国王に奉納させ、その後改めて封土として与えるという形式をとりました。これにより国王の権力が強力であることを示したうえ、国内のすべての領主(貴族)に対し忠誠を誓わせて王権をいっそう強化しました。また税金徴収の効率化のため、全国の土地台帳を作成させます。このときに作成されたのが、有名な「ドゥームズデイ・ブック」です。日本史で言えば「太閤検地」のようなものです。

 またウィリアム1世は、1070年にイタリア出身の聖職者ランフランクをカンタベリ大司教に任命し、彼とヨーク大司教との間で勃発していた第一位の大司教の座を巡る争いについて、カンタベリ側に軍配を上げます。イングランドの宗教界のトップとなったランフランクは、これ以降、ウィリアム1世と二人三脚の立場をとります。ウィリアム1世は、イギリスの宗教界を自らの傘下に置くことができ、ローマ教会からある程度の独立を勝ち取ったのです。またこのことは、後にイギリス国教会が形成される礎石となりました。

フランスの西半分をも支配したプランタジネット朝

 フランスの有力貴族・アンジュー伯ジョフロワ4世とイングランド王・ヘンリー1世の娘・マティルダとの間に生まれた息子・アンリは、1150年、父からノルマンディー公を受け継ぎ、さらに翌年、父の死去に伴い、アンジュー伯領(おおむね、現在のメーヌ=エ=ロワール県にあたる)も受け継ぎました。さらに1152年には、12歳年上のアリエノール・ダキテーヌと結婚。彼女は相続地アキテーヌ公領を相続していたので、アンリはアキテーヌでも共同統治者となりました。つまりアンリは、現在のフランス国土の半分に及ぶほどの広大な領地を統治する人物となったのです。

 そのアンリが1154年にはイングランド王となります(イングランドではヘンリー2世)。イングランドではノルマン朝の王位継承をめぐる内乱が続いていましたが、母方の血筋がものを言い、イングランド王の正統な後継者と認められたのです。

 ヘンリー2世が開いた王朝は、プランタジネット朝と呼ばれますが、イングランドばかりかフランスに広大な領土を有するこの領域は「アンジュー帝国」と呼ばれています。

【地図3】アンジュー帝国(緑色の部分はイングランド王の宗主権範囲) ©アクアスピリット

リチャード1世、衰退の予感

 ヘンリー2世は子だくさんでした。早くからそれぞれの息子たちに相続させる領地を決めていたのですが、なかなか実権を手放そうとしない父に、息子たちが反乱を起こします。ヘンリー2世はこれを平定しますが、広大な領土を持つ彼に対して敵愾心を燃やす若きフランス王・フィリップ2世がその混乱に付け込みます。ヘンリー2世の三男・リチャードと手を組み、戦争をしかけるのです。さらに五男・ジョンまでもが加担します。ヘンリー2世はこうした息子たちの裏切りの中、亡くなっていきました。

 変わってイングランド王となったのは、三男・リチャードでした(即位後はリチャード1世)。

 リチャード1世は勇猛な王だったと伝えられています。即位した当時、第3回十字軍(1189〜1192年)が始まっていました。リチャード1世はこれに参加するために、城・所領・官職などを売却して資金を集めます。この十字軍にはドイツ王(神聖ローマ皇帝)フリードリッヒ1世やフランス王のフィリップ2世も参戦しましたが、活躍という面ではリチャード1世がずば抜けていたようです。

 ところが、十字軍遠征終了後の帰国の途中、リチャード1世はオーストリア公の捕虜になってしまい、さらにその身柄が聖ローマ皇帝のハインリッヒ6世に引き渡されます。同皇帝は莫大な額の身代金をイングランドに要求。イングランドがその条件を呑み、リチャード1世はようやく帰国することができましたが、身代金の支払いのためイングランドの諸侯には巨額の課税がなされることになってしまいました。

 リチャード1世の不幸はまだ続きます。ようやく帰国できたと思ったら、今度はフランスに出兵しなければならなくなりました。というのも、彼が捕虜になっている間に、フランスのフィリップ2世によって、アンジュー帝国の領地であるノルマンディーなどが奪われてしまっていたのです。出兵はこれを取り戻すためのものでした。

 リチャード1世は奪われた領地の回復には成功しましたが、交戦中のけががもとで1199年に41歳で亡くなってしまいます。リチャード1世の治世は、身代金の支払い、度重なる戦争による出費で、プランタジネット朝に大きな財政的負担をかけることになりました。