黄河流域を支配した曹操の魏は、大規模な屯田を実施。また当時としては画期的な用具を用い、灌漑を行います。こうして混乱で低下していた農業生産を回復させていきました。

 長江上流域を支配した蜀は、劉備が諸葛亮を宰相として様々な経済政策を施しました。農耕奨励、制負担の軽減、絹織物生産の奨励などです。

 長江の中下流域を占めた孫権が建てた呉は、もともと農業技術の面では遅れていましたが、戦乱を避け北方から逃れてきた農民が移住してきたため、技術が向上。北部で普及していた牛二頭で引く犂耕法も取り入れられるようになりました。

五大河川をつなぐ巨大インフラ事業「京杭大運河」

 このような過程を経て、それまで北方の黄河流域が政治や経済の中心地でしたが、このころから長江南岸の江南地域が経済力を増していくことになります。

 ただし、相次ぐ戦乱のため、三国時代には中国の人口は7分の1にまで減少したとも言われています。この数字、私はあまりに過度な数字ではないかと思っていますが、かなり人口が減少したのは事実のようです。そうした点から考えると、三国時代はさまざまな農業技術発展などはありましたが、中国全体で見た経済力は停滞、あるいは低下したと捉えるベでしょう。

 三国時代を終わらせたのは晋(西晋)でした。後漢末期に分裂した中国をほぼ100年ぶりに統一したわけですが、それも長続きしませんでした。316年には西晋が滅び、人々は南へ逃れた人々によって江南地方に東晋が建国されます。西晋後期以降、江南地方にはやはり北方から人々が大量に流入してきました。そのため労働人口が増加し、北方の優れた生産技術も導入され、江南地域の経済発展はさらに急速化します。

 一方、華北地方では、304年に西晋が滅んでから439年の北魏による華北統一まで、五胡十六国時代と呼ばれる分裂の時代が続きます。激しい戦乱の時代となったため、経済的中心が江南に移っていくことになりました。

 南を東晋が支配し、北を五胡十六国で覇権を争った時代を南北朝時代と呼びますが、この時代は江南を漢民族が支配し、華北を北方民族が支配した時代と捉えることが出来ます。

 この分裂の時代を終わらせ、中国を統一したのは長安に都をおいた隋でした。隋を建てた楊堅(文帝。在位:581年~604年)は漢民族とされていますが、彼は北方民族の国家が導入した政策を取り入れる柔軟さを持っていました。その一例が、北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などです。文帝はこれらをもとに、短期間のうちに律令制を整備しました。さらに科挙を創始し、州県制などの中央集権体制を作り上げるのです。

 言うなれば、隋の文帝は、秦の始皇帝や漢の武帝が行った中央集権体制を再び築き上げたのです。大きな権限を握り、政策を実行する行政システムを作り上げたことで、隋はダイナミックな経済政策を実施することが可能になりました。

 この時代の代表的な経済政策の1つが、大運河(京杭大運河)の建設でしょう。これは、文帝が建設を開始し、第2代・煬帝(在位604〜618)の治世に完成しました。陸地に新たな運河を掘り進めるのではなく、天然の河川やそれ以前に開削されていた運河を連結させたものですが総延長は2500キロメートルにも及び、海河、黄河、淮河、長江、銭塘江の五大河川を連結する巨大なインフラ事業でした。これにより華北と華南の物流がつながれ、両地域の経済圏の一体化を強く促進したのです。

【地図2】京杭大運河 ©アクアスピリット
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 このように大いに発展するかに見えた隋ですが、意外にも短命に終わってしまいます。それは、第2代皇帝・煬帝のキャラクターに原因がありました。

 経済発展に大きく貢献したこの大事業も、一説には数百万人ともいわれる膨大な人々を徴発して進められました。またその建設費も天文学的になったため、人々は疲弊してしまいます。