唐の都・長安(現在の西安市)に立つ大雁塔。三蔵法師(玄奘)が、インドから持ち帰った多くの仏典の保存のため、唐の高宗に申し出たことにより、652年に建立された。

 本連載の第5回では秦の始皇帝、第6回では漢の武帝の経済政策について述べました。秦の始皇帝が確立し、武帝がさらに発展させた中央集権体制のもと、国家が経済に積極的に介入することで中国経済は著しい成長を遂げました。今回は、その後の中国経済の行方をフォローしてみましょう。

三国時代

 中央集権体制を強化し、漢を繁栄に導いた武帝(在位:前141~前87)の治世が終わると、支配階級は腐敗し、漢の国勢は衰えていきました。そうした中、外戚の王莽が政権を奪い、後8年に新を建国、経済改革に乗り出しますが、その取り組みは全く上手くいきませんでした。結局、赤眉の乱などの農民反乱を招き、23年に新は崩壊。25年に、漢王朝の皇族・劉秀(後の光武帝)により後漢が成立します。

 光武帝は国力を盛り返すため財政再建に努めます。そして続く明帝、章帝の時代まで後漢は経済・文化を発展させることができました。ただ、その後は幼帝が続いたため、皇帝を取り巻く外戚と宦官との間で権力闘争がたびたび起こり、権力は腐敗していきます。

 こうした中、太平道の信者による農民反乱「黄巾の乱」をきっかけに、中国は国内が分裂する「魏晋南北朝時代」(184〜589)に突入してしまいます。

 魏晋南北朝時代のうち、西晋による天下統一までを「三国時代」(184~280)と呼びます。

【地図1】三国時代の中国 ©アクアスピリット
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 魏・蜀・呉の三国が鼎立した時代ですが、三国はそれぞれ経済発展に努めました。

 黄河流域を支配した曹操の魏は、大規模な屯田を実施。また当時としては画期的な用具を用い、灌漑を行います。こうして混乱で低下していた農業生産を回復させていきました。

 長江上流域を支配した蜀は、劉備が諸葛亮を宰相として様々な経済政策を施しました。農耕奨励、制負担の軽減、絹織物生産の奨励などです。

 長江の中下流域を占めた孫権が建てた呉は、もともと農業技術の面では遅れていましたが、戦乱を避け北方から逃れてきた農民が移住してきたため、技術が向上。北部で普及していた牛二頭で引く犂耕法も取り入れられるようになりました。

五大河川をつなぐ巨大インフラ事業「京杭大運河」

 このような過程を経て、それまで北方の黄河流域が政治や経済の中心地でしたが、このころから長江南岸の江南地域が経済力を増していくことになります。

 ただし、相次ぐ戦乱のため、三国時代には中国の人口は7分の1にまで減少したとも言われています。この数字、私はあまりに過度な数字ではないかと思っていますが、かなり人口が減少したのは事実のようです。そうした点から考えると、三国時代はさまざまな農業技術発展などはありましたが、中国全体で見た経済力は停滞、あるいは低下したと捉えるベでしょう。

 三国時代を終わらせたのは晋(西晋)でした。後漢末期に分裂した中国をほぼ100年ぶりに統一したわけですが、それも長続きしませんでした。316年には西晋が滅び、人々は南へ逃れた人々によって江南地方に東晋が建国されます。西晋後期以降、江南地方にはやはり北方から人々が大量に流入してきました。そのため労働人口が増加し、北方の優れた生産技術も導入され、江南地域の経済発展はさらに急速化します。

 一方、華北地方では、304年に西晋が滅んでから439年の北魏による華北統一まで、五胡十六国時代と呼ばれる分裂の時代が続きます。激しい戦乱の時代となったため、経済的中心が江南に移っていくことになりました。

 南を東晋が支配し、北を五胡十六国で覇権を争った時代を南北朝時代と呼びますが、この時代は江南を漢民族が支配し、華北を北方民族が支配した時代と捉えることが出来ます。

 この分裂の時代を終わらせ、中国を統一したのは長安に都をおいた隋でした。隋を建てた楊堅(文帝。在位:581年~604年)は漢民族とされていますが、彼は北方民族の国家が導入した政策を取り入れる柔軟さを持っていました。その一例が、北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などです。文帝はこれらをもとに、短期間のうちに律令制を整備しました。さらに科挙を創始し、州県制などの中央集権体制を作り上げるのです。

 言うなれば、隋の文帝は、秦の始皇帝や漢の武帝が行った中央集権体制を再び築き上げたのです。大きな権限を握り、政策を実行する行政システムを作り上げたことで、隋はダイナミックな経済政策を実施することが可能になりました。

 この時代の代表的な経済政策の1つが、大運河(京杭大運河)の建設でしょう。これは、文帝が建設を開始し、第2代・煬帝(在位604〜618)の治世に完成しました。陸地に新たな運河を掘り進めるのではなく、天然の河川やそれ以前に開削されていた運河を連結させたものですが総延長は2500キロメートルにも及び、海河、黄河、淮河、長江、銭塘江の五大河川を連結する巨大なインフラ事業でした。これにより華北と華南の物流がつながれ、両地域の経済圏の一体化を強く促進したのです。

【地図2】京杭大運河 ©アクアスピリット
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 このように大いに発展するかに見えた隋ですが、意外にも短命に終わってしまいます。それは、第2代皇帝・煬帝のキャラクターに原因がありました。

 経済発展に大きく貢献したこの大事業も、一説には数百万人ともいわれる膨大な人々を徴発して進められました。またその建設費も天文学的になったため、人々は疲弊してしまいます。

 また初代・文帝が質素倹約を重んじ、「開皇の治」と呼ばれる善政を施したのに対し、その実子である煬帝は正反対の性格で、派手好きで見栄っ張りな人物だったと伝えられています。さらに贅沢の限りを尽くし、「中国史を代表する暴君」とまで評されるほどです。

 そのうえ煬帝は、三度にわたって高句麗遠征に乗り出し、ことごとく失敗。度重なる労役と兵役により、多くの農民が長期間、故郷を離れざるを得ず、田畑は荒廃。深刻な食糧危機に見舞われました。

 結局、内乱の末、618年に隋は滅び、李淵、李世民親子によって、唐が建国されました。

隋の制度を受け継いで成長した唐

 唐は隋の時代以上に経済を発展させます。 唐の都・長安は人口100万人を擁するユーラシア大陸最大の都市でした。外国人も多く訪れ、まさに国際都市でした。

 唐にとって幸運だったのは、隋が築いた政治システム、経済システムをそのまま利用できたことです。とくに李淵の後を受け皇帝となった李世民(太宗。在位:626~649)は、隋の暴君・煬帝を反面教師にして政務に励みつつ、隋が整備していた行政制度や社会インフラをフル活用しました。

 まず唐は、隋と同様に律令制を採用します。この制度は、「土地と人民は皇帝の支配に服属する」という思想のもと、人民に対して平等に耕作地を支給し、その代わりに租税・労役・兵役の義務を平等に課すというもので、それを実施するための法令体系が律令でした。

 さらに唐は、租調庸制や均田制といった税制、府兵制といった兵制、科挙制という官吏登用制度を採用しました。これらはいずれも、隋の時代に整備されていたものです。

【地図3】8世紀ごろの唐の領土 ©アクアスピリット
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 隋が用意していた統治システムを引き継いだ唐は、最初から高度に中央集権が進んだ国家として登場しました。こうして太宗の時代、経済も一気に発展します。東ローマ帝国の使者が長安を訪れ、太宗に謁見したという記録もあります。唐の勢力が強大だった太宗の時代は「貞観の治」と呼ばれています。

開元の治と玄宗、そして唐の滅亡

 その唐にも混乱が訪れます。第三代皇帝である高宗の皇后であった武則天(624〜705)が、中国史上最初にして最後の女帝となります。690年のことです。武則天は国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称するようになります。しかしこの時すでに高齢であった武則天は、長く実権を握り続けることができず、ほどなく退位。国号も唐に戻ります。彼女の死後は、また政乱が生じ政治は混乱しますが、それを平定したのが玄宗(在位:712〜756)でした。

 玄宗の治世の前半は、「開元の治」といわれる太平の世でしたが、後半には楊貴妃を寵愛し、彼女の親族が権勢をふるうようになり、世の中は乱れはじめます。そんな中、楊貴妃や玄宗に取り入っていた節度使(辺境警備に当たった軍人の役職)の安禄山が反乱を起こします(安史の乱)。この乱は、ウイグルの支援を得て、唐が平定することに成功しますが、国勢は衰退の一途をたどることになりました。

目覚ましい成長を遂げた宋代の経済

 唐の滅亡後、華北では五つの王朝——後梁・後唐・後晋・後周・後漢が、華中・華南では十国が目まぐるしく交代しました。この時代は、五代十国時代と呼ばれます。混乱に終止符を打ったのは、趙匡胤(宋の太祖。在位:960〜979)でした。趙匡胤は、960年に宋(北宋)を建国します。

 趙匡胤は中国を統一し、漢民族による支配を回復させることに成功します。科挙の最終試験として「殿試」を採用して官僚制を整備、武断的な政治を改めて文治主義を進め、皇帝専制体制を築き上げます。自分も武将出身だった趙匡胤は、皇帝になった後、軍を統率していた武将たちを酒席に招き、そこで彼らに豊かな土地の支配権と引き換えに、兵権を返上するように説得します。こうして皇帝自ら軍を統率し、必要最小限の軍備にとどめる方針を取りました。そのため宋の軍事力は決して強いものではなく、地図に示したように、その支配領域は決して広くはなかったのです。

【地図4】北宋 ©アクアスピリット
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 ただし、宋の経済力は、世界史上でも稀なほどの勢いで成長した時代として知られています。

「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」という言葉があります。長江下流の蘇湖(江浙ともいう)地方が実れば中国全土の食料は足りる、という意味ですが、北宋から南宋時代に、長江下流域が経済の中心となったことを示す言葉なのです。それほど宋の時代には長江下流域の経済発展が目覚ましかったのです。

 要因の1つには、10世紀にベトナムから導入された「占城米」というコメの存在がありました。これは収穫量の多い早稲で、これにより長江下流域では二期作や二毛作が可能になり、農業生産が増大します。

 まだ宋の時代には、商品経済が確立し、流通が発展します。都市部ばかりか、農村部の交通の要路近くにも多くの交易市場が形成され、商業が盛んになりました。決済手段として、宋銭(銅銭)が大量に鋳造され、それは中国国内のみならず海外でも流通するほどでした。宋銭はインドでも発見されています。おそらく、アジアでもっとも使われた通貨だったのでしょう。

 さらに経済活動が活発になると、貨幣だけでは間に合わず、世界初の紙幣となる「交子」が流通するようになります。これも商業の利便性向上に多いに役立ちました。

 宋代は海外貿易も盛んでした。海外との貿易を監督する役所「市舶使」が置かれた泉州、明州、温州、杭州などは貿易港として栄えます。中国からは磁器や絹織物が輸出され、代わりに香料や象牙などが輸入されました。

 海外から輸入された商品や華南で栽培されたコメなどは、大運河を使って華北まで輸送されました。このようにして華北と華南の経済的結びつきは一層強まります。

 漢の末期から宋の時代まで駆け足で振り返ってみましたが、ここで見てきたように、時の皇帝が中央集権体制を巧みに使い、有効な経済政策を打ち出した時代の中国は大いに繁栄してきました。逆に、皇帝が幼く、外戚や宦官によって傀儡化したり、皇帝が酒色にふけってまともに執権をふるおうとしなかったりすると、一気に国勢が衰え、混乱期に突入します。中国はこの繰り返しをしてきたわけですが、裏を返せば、皇帝を絶大な権力を持つ中央集権国家において、賢帝を継続的に輩出することがいかに難しいか、ということの証とも言えるのです。