それに対し、米国はキューバからの攻撃があった場合にはソ連による攻撃とみなして報復するとの声明を出した。

 そのことによって米ソの緊張が一挙に高まり、危機は全面核戦争寸前までに達して、世界の終末までが囁かれる事態へと拡大した。

 この間、ウ・タント国連事務総長や中立諸国の首脳が積極的に動き、また米ソ間でも文書の交換など水面下で危機回避の努力がなされた。

 そして、10月28日、ソ連のフルシチョフ書記長は、米国の条件を受け入れソ連船舶に引き返すよう命じるとともに、米国がキューバを攻撃しないことを条件にミサイル基地の撤去を約束し、米国もそれに応じて海上封鎖を解除した。

 その後、この危機を契機として、1963年には米ソ間のホット・ラインが開設され、次いで部分的核実験停止条約(PTBT)が成立するなど、米ソの平和共存と緊張緩和(デタント)が進展した。

 このように、キューバ危機は、13日間という短い期間で世界を核戦争の恐怖に陥れるまでに危機を増幅させたが、その危機を克服することに成功した歴史的大事件でもあった。

 この間、米国は、海上封鎖(Blockade)という言葉には、戦時封鎖(戦時に敵国に対して行う封鎖)と平時封鎖(平時、不法行為をした国に対し被害国が復仇として行う封鎖)があり、戦争行為と解釈されることを避けるため、隔離(Quarantine)という言葉を使用し、危機をいたずらにエスカレートさせないよう配慮した。

 また、ケネディ米大統領は、キューバからミサイルを撤去させる代わりに、ソ連の裏庭であるトルコに配備していた米国のミサイルを撤去するとの秘密裡の裏取引を、司法長官であった弟のロバート・ケネディに託し、柔軟な対応の用意があることを示唆した。

 これに対し、フルシチョフ首相は「トルコの米軍基地の清算まで達成できれば我々の勝ちだ」と語っている。

 このように、米ソ両国は、対等な主権国家また大国として、どちらか一方が譲歩したということではなく、双方が妥協したような形に収めることで、お互いの体面を保ちつつ外交的解決に導くことができたのであった。