少し前「教育勅語」を幼稚園児に暗礁、もとい暗誦させるという育児を巡る議論があり、文科省から何らかの見解が出たり出なかったりしたのをご記憶の方も多いと思います。
さて、この「暗誦教育」で、もう1つ園児たちが丸暗記させられたものがあるのですが、こちらはあまり話題になっていない様子です。
「五箇条のご誓文」
これを幼児に・・・と見た瞬間、申し訳ないのですが、私はプッと噴出してしまいました。
なぜと言って、新政府が出したこの「五箇条のご誓文」を読んで、「これからいつでも乱交して構わないのだ」と若者たちが誤解した経緯があると伝えられているからです。
つまり、それまでは盆踊りや春秋の彼岸だけに許されていた「夜這い」「雑魚寝」の類が全解禁と勘違いした若くエネルギーをもてあました善男善女が、お宮の拝殿などで性行為にふけり、慌てた官憲が懸命に弾圧しても、かなり長いことこの「タブー解禁」は信じられ続けたというのです。
よりによって幼稚園児に「五箇条のご誓文」、なかなか傑作なことをしてくれたものです・・・
ということで、まずは、その「ご誓文」そのものから再検討してみましょう。
ご誓文と「おまけ」
慶應4年3月14日、現在の暦で言うなら1868年4月6日、いまだ若い(明治)天皇が天地神明に誓う、という形式を取って、まだ「明治」と改元する以前でしたが、新政府が新しい国のあり方を、主として大名や公家に対して文書で示したのが、五箇条のご誓文と呼ばれるものでした。
前年にあたる慶應3年10月、江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜は「大政奉還」を天皇へ上奏、政治権力の実体は朝廷側に移ったことになっていましたが、いまだその実体は固まっていませんでした。
親藩である福井藩出身の政府参与、由利公正(ゆりきみまさ)が政府の基本方針を下書き、これを5条にまとめ、続いて土佐藩出身の福岡孝弟(ふくおかたかちか)や長州出身の桂小五郎こと木戸孝允などが手を加えて出来上がったのが、公にされたご誓文のテクストで、当然ながら明治天皇が書いたものではありません。
この当時、由利は39歳、福岡は33歳、木戸は35歳といずれも青年の筆になるものでありましたが、慶應4年の時点で「新天皇」はいまだ16歳の少年、いわばダブルスコアの年齢で、草莽から駆け上がってきた「志士」たちに操られて、こうした「神祇」を行っていたと考えられます。