こんな近代軍装備の前で「やぁやぁ、遠からんものは・・・」なんて名乗りを上げていても意味はありません。チュドーンとやられればおしまいです。

 近代軍備に個人的な武勇に優れた英雄は必要ないのです。それは軍備対軍備の戦い、装備に勝った勢力が、いずれは敵を圧倒してしまう、ある意味でまことにつまらない戦争になったと言えるかもしれません。

 そこで必要とされるのは・・・個性的な剣客、佐々木小次郎や柳生十兵衛の勇猛ではなく、小銃何丁を持った何個小隊がどのように布陣しどう展開するか、というウォーゲーム的近代戦だったのです。

 個人対個人の戦いではなく、装備によって決定される、いわば確率的な戦いで、最終的には期待値に勝る側が勝利を収めるという、没個性的な兵法。

 古典的な果し合いとしての優雅な日本型合戦ではなく、装備さえ揃っていれば、それを操作する兵隊の個性はほとんど問われることがありません。かつて織田信長が鉄砲を大規模に導入し勝利を収めて天下人となった「長篠の戦」を大規模に再現するようなものでした。

 こうした経緯を冷静に見つめていたのが、靖国神社の創設者、医師で兵法家の村田蔵六でした。

国民皆兵と靖国神社

 大村益次郎こと村田蔵六は卓越した語学の力と不屈の意思をもって独学で西欧兵法を学んだ傑物でした。

 と同時に、十分醒めた合理的な思考のできる人物でもあった。敵の戦力が自ら消耗するのを待つ、被害が大きいと想像される場所に薩摩兵を配し、それによって薩摩の恨みを買って最後は暗殺される、といった説が根強く囁かれるのも、そうした冷徹さに起因することかと思われます。

 村田蔵六は、武士がプライドをかけて固執していた個人対個人の戦いを完全に否定して、19世紀欧州のグローバルスタンダードで軍事を思考することができました。

 戊辰戦争、上野の山の彰義隊討伐に当たって、村田は見通しのよい昼間に敵を消耗させ、午後になって敵が疲れてきたあたりのタイミングから近代火器である「アームストロング砲」を撃ち始めます。

 これは鍋島藩が有田焼や伊万里など、東洋の白ダイヤとして高く売れた磁器を外貨産物として手に入れた近代火器であったと思われます(私たち佐賀の人間はこのあたりに敏感です)。

 こんなものをぶっ放された日には、いかに佐幕派が勇猛だろうと、白虎隊のローティーンが決死の覚悟をしようと、ひとたまりもありません。

 古典的な日本武士の兵法に依存しがちだった同僚が「戦いが夜に及んでは・・・」と心配するなか、村田蔵六は全く動ぜず、懐中時計を見ながら「夕方には終わるでしょう」と落ち着いていたそうです。

 果たしてアームストロング砲、いまで考えれば「ボム」ですね、これが炸裂し始め、日が傾くころ上野の山で火の手が挙がると

 「もう終わりました」

 と江戸城の物見から平然と言い放ち、その言葉のとおりに官軍勝利を伝える伝令が、前後して駆け込んできたそうです。

 兵力はすでに、「やぁやぁ遠からんものは音に聴け」という武士の専権事項ではなくなっていた。