前回、「教育勅語」は大日本帝国憲法と両輪として構想され、「国民皆兵」を基礎に据える近代日本国家の軍制備に必要不可欠な精神訓として整備された経緯を見ました。
(前回の記事)「幼児に教育勅語を暗唱させる時代錯誤と大問題」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49446
さて、ここで改めて考えて見ましょう。
日本という国を考えるうえで、この「国民皆兵」という考え方は、善くも悪しくも画期的なものでありました。
どうしてか?
士農工商という言葉があります。徳川幕府260余年を通じて、刀剣の類を身に帯びた「武士」が支配階級であって、その下に農民も職人も商人もかしづいた。
大名行列などの類に「頭が高い」とやられると、地べたに土下座させられるのは珍しいことでなく、無礼があれば斬り捨てご免、実に理不尽な体制が長く続きました。
それが「四民平等」と呼ばれるようになる背景は何であったのか?
江戸時代、「士農工商」で武士とされた人々の軍備は刀や槍、弓矢や馬が中心で、鉄砲飛び道具の類は微妙に卑怯、集団戦法などは邪道であって、
「やぁやぁ遠からんものは音に聴け、近くば寄って目にも見よ」
式の、牧歌的な果し合いが主流であって、宮本武蔵でも清水一角でも、剣士個人の技量がものをいい、また召抱える側からしても、個人として優秀なサムライへの評価が高かった。
それではいけない! そんなことでは欧州列強の侵略、植民地支配に対抗してはいけない、というのが大村益次郎こと村田蔵六の考え方で、そこから国民皆兵の発想も、東京招魂社、つまり後の靖国神社に至る発想も生まれてきたわけです。
この考え方の源流を探訪してみましょう。
「個性」不要の近代軍備
「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」
とは「黒船」こと蒸気船で来航したペリー一行の開国要求に右往左往する江戸幕府を揶揄した狂歌で、「じょうきせん」は宇治の上等のお茶の銘柄。カフェインの強い喜撰と蒸気船4艘とをかけて、たかだか4つ黒船が来ただけで幕閣が上を下への大騒ぎをからかったものでした。
ところで、なぜ、黒船が来たとき、幕府首脳はそこまであわてたのか?
答えは「大筒」つまり大砲にあります。ペリー艦隊4隻の軍事装備を見てみると
旗艦 サスケハナ号 10インチ砲3門 8インチ砲6問
ミシシッピ号 10インチ砲2門 8インチ砲8問
プリマス号 8インチ砲8門 32ポンド砲18問
サラトガ号 8インチ砲4門 32ポンド砲18問
と、単純計算しただけで70門近くの大砲を山積みした真っ黒の船が江戸湾沖にお城を狙う形で入港したわけですから、夜もおちおち寝ておられず、幕閣はまさに「たった四杯で」の状況になってしまった。