菅直人政権が発足してから1年が経ち、東日本大震災が発生してからちょうど3カ月が経過した。この1年間およびこの3カ月間の通信簿をつけたらどうなるのだろうか。恐らく、身内以外ならどんなに甘い採点者でも「オール1」をつけるのではなかろうか。
最大不幸社会を目指し始めた日本
何しろこの1年間、すべての施策が場当たり的でビジョンがなかった。
そのことが震災対応の3カ月間で如実に示され、日本は「最大不幸社会」へと大きく舵を切ってしまったからだ。
極めつけがリーダーとして国民の信を完全に失った謀略だった。内閣不信任案を否決させたいがためだけの、あの覚書騒ぎである。
これについては各メディアで様々に論評されているが、いかに愚かな策であったかを6月9日の産経新聞が歴史の視点で表現している。
山内昌之東京大学教授の寄稿「幕末から学ぶ現在(いま)」である。
ここでは、鳩山由紀夫前首相と菅首相が交わした覚書を、関が原の戦いの前夜、徳川家から毛利家にもたらされた書状になぞらえて語られている。
関が原の前夜、毛利の吉川広家に、家康の意向らしき内容を記した井伊直政と本田忠勝の書状が届けられたという。その有名な書状には次のように書かれていた。
「輝元に対し聊(いささ)か以(もっ)て内府御如在(じょさい)あるまじき事(家康は輝元に対して少しも手抜かりをせず粗略に扱うつもりがない)」
ところが、この書状には家康の朱印や花押はなく、明らかな家康による謀略だった。その結果、120万石を安堵されると信じた輝元は関が原の戦いで中立を守るが、徳川の世になってしまえば、わずか防州と長州の2カ国37万石に減封されてしまう。