日産最新のEV、アリアの前で_初代リーフを開発・市販化した、CVE(チーフビークルエンジニア)の門田英稔氏(撮影:川口紘)

 電気自動車(EV)は内燃機関が電気モーターに置き換わっただけの自動車なのか──。数多くの新EVが発表され、その需要は一段落したとまで言われる今こそ、改めて問い直してみたい。そもそもEVとはどういう自動車だったのか? 世界初の量産型電気自動車「日産リーフ」(以下、リーフ)の開発責任者である門田英稔氏に話を聞いた。(第1回 / 全3回)

世界初の量産型電気自動車・リーフの誕生とその背景

 2010年12月、日産は5人乗り普通乗用車として世界初の量産型電気自動車「リーフ」を発売した。24kWhのリチウムイオンバッテリーを搭載し、満充電時の航続距離は200km。「走行中CO2排出量0」がうたい文句のこのクルマを購入した多くの人が、かつて経験したことのない自動車体験を味わった。評価は日本だけでなく、米国、欧州でも高かった。

初代 日産リーフ

 そもそも日産がEVの開発を決断した背景には、何があったのか。初代リーフの開発責任者としてCVE(チーフビークルエンジニア)を務めた門田 英稔氏は、当時の状況を振り返る。

「1990年代にアメリカで始まったZEV規制が、EV開発の大きなきっかけとなりました。この規制により、EVかFCV(燃料電池自動車)を開発せざるを得ない状況になり、各社一斉に電動車の開発を始めました」

門田英稔氏(日産リーフの開発責任者)
1956生まれ。1982年 日産自動車入社。シャシー設計部にて足回り部品や車両性能の開発に従事。 1991年電気自動車(EV)の開発に従事した後、2001年から燃料電池車(FCEV)開発を担当。 2007年に日産LEAF Projectのチーフ・ビークル・エンジニア(CVE)として、世界初の量産EVの開発を主導した。

 ZEVとは、Zero Emission Vehicle(ゼロエミッションビークル)の略で、ZEV規制は排出ガスを一切出さない車両の普及を目指す規制を指す。1990年初頭にカリフォルニア州が導入し、州内で一定台数以上の自動車を販売するメーカーに対し、ZEVを一定比率以上販売することを義務付けた。

 その対応としてEVを選択した日産は、必要なパワートレイン、その駆動力制御などの要素技術の研究開発を加速させたが、リーフの開発が正式に決定したのは2007年の秋だった。

「1990年代からEVの開発や少量の市場投入を進めてきたことで、お客さまから受け入れられそうなEVのイメージは既に出来上がっており、必要な技術も相当量蓄積されていました。しかし、上層部から3年でリーフを開発しろと命じられたので、非常に大変でしたね」

 通常、新車の開発には少なくとも4年から5年はかかると言われている。既に要素技術はそろっていたとはいえ、リーフは世界初の量産型電気自動車。数多くの新しい技術を盛り込む必要があり、従来の自動車とは異なる開発や生産方法が必要だった。これを異例のスピードで成し遂げた日産の挑戦は、今でも自動車史における偉業として語り継がれている。

2010年のリーフ発表披露会