「一番搾り」の広告代理店は電通だったが、「淡麗」では第一企画(現在のADKグループ)を使う。

 もともとキリンの商品開発部では「ラガー」や「一番搾り」と「発泡酒」が競合しないように腐心していた。

 一方、前田は「ビールが減っても、それ以上に淡麗が伸びればいい」という方針を打ち出し、「淡麗」が「ラガー」「一番搾り」と競合することをいとわなかった。

 それは、かつてのキリンでは考えられない「発想の転換」だった。この前田の判断を、「マーケットの創造的破壊に挑んだ」と評したマーケターもいたという。

 前田仁には勝算があった。

 景気が拡大していたアメリカにあっても、価格の安いエコノミー商品が販売量の6割を占めていた。ましてや、不況にあえぐ日本で、発泡酒が売れないはずがない。

 90年代も終わりを迎え、人々の意識やライフスタイルは大きく変化しつつあった。仕事が終わったあと、上司が部下を連れて縄暖簾(なわのれん)をくぐり、「とりあえずビール」で乾杯する光景もだんだん減っていった。

 そんな中、特に若い世代には、「お酒はプライベートで楽しむもの」という考え方が広がりつつあった。自腹で飲むなら、少しでも安いお酒のほうがありがたい。

 そうしたニーズに応える商品の大ヒットを、前田は確信していたのだろう。

 迎えた98年2月3日。

 この日開かれた「淡麗」の発表会の席上では、完成していた「淡麗」のサンプル品も配付された。

 アナウンスされた発売日は2月25日。ほかの開発チームが束になっても、まるで進まなかった発泡酒の新商品を、前田はたった4カ月で開発してみせたのである。

 しかも、子会社から本社に復帰して最初の仕事だった。普通では考えられないようなスピードである。

 なぜこんなことが可能だったのだろうか。