その理由について、上野は次のように語る。

「前田さんが一人でやったからです。チームはありましたが、メンバーは前田さんの手足でしかなかった。淡麗の開発では、上司に確認をとる必要がありませんでした。前田さんは商品開発部の部長であり、一人のマーケターでもありました。だから、前田さんは、自分でプランを考え、自分で決裁することが可能だったのです。逆に、そうでもしなければ、たった4カ月で新商品を開発するのは不可能だったと思います」

 別のキリン元幹部は指摘する。

「マーケ部が発泡酒開発に苦戦していることを、前田さんは間違いなく知っていた。そこで、『自分ならこう作る』という考えを、前田さんはある程度もっていた、と思う。また、外部スタッフも、一番搾り開発時と同じ人たちを前田さんは起用した。彼らは7年半の間に大御所になっていたけど、前田さんの元に集まってくれたのも成功要因でした」

 猛スピードで商品化された「淡麗」だったが、決して「やっつけ仕事」ではなかった。いざ発売されるや、消費者から熱狂的な支持を受けたのである。

 当初の販売目標は、98年12月末までに1600万箱だったが、実際には目標をはるかに上回る3979万箱を売る。

 発泡酒の「淡麗」と単純比較はできないが、初年度の販売数としては、「スーパードライ」の1350万箱(87年)、「キリンドライ」の3964万箱(88年)、「一番搾り」の3562万箱(90年)を上回る、「最多記録」だった。

 発泡酒だけを見ても、サントリーの「スーパーホップス」を抜き、いきなりトップブランドに躍進した。

「淡麗」人気は発泡酒市場全体を牽引(けんいん)する。98年のビール・発泡酒市場に占める発泡酒の構成比は、97年の5.8%から跳ね上がり、13.5%と初めて1割を超えた。

 窮地のキリンにとって、「淡麗」のヒットはまさに「恵みの雨」となった。

 98年のキリンの出荷量は前年比0.5%増。微増だが、前年度を上回ったのは94年以来、実に4年ぶりのことだった。この年のビール・発泡酒市場におけるキリンのシェアも、40.3%と前年比で0.1ポイント回復する。

 しかしながら、98年のビールの出荷量は前年比17.2%減と、大きく下がってしまう。「淡麗」と「ラガー」などのビール商品が競合してしまったことがその理由だ。

 一方、発泡酒に未参入だったアサヒのシェアは前年より1.8ポイント増の34.2%。ただし、ビール単体のシェアは、キリン38.4%に対しアサヒは39.5%と、アサヒはついにシェア№1の座を奪ったのである。

<連載ラインアップ>
第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(本稿)

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