昨今「人的資本」や「人的資本経営」という言葉を目にする機会が増えている。その背景には、2020年9月に経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」の中で、人的資本と人的資本経営が強調されたことがある。同レポートをまとめた検討会で座長を務めた一橋大学CFO教育研究センター長である伊藤邦雄氏は、「サステナブルな経営を実現する基盤として、人的資本への投資が不可欠である」と説く。同氏がメンバーシップ型雇用の限界を指摘するとともに、3つの目線で捉えた人的資本経営の意義と本質について解説する。

※本コンテンツは、2022年5月26日(木)に配信したJBpress/Japan Innovation Review主催「第1回 取締役イノベーション」の特別講演3「人的資本経営で企業変革を加速化させよう」として再配信された内容を採録したものです。
※「人材版伊藤レポート2.0」が、本講演収録後の同年5月13日に経済産業省より発表されました。

動画アーカイブ配信はこちら
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73723

人的資本経営の必要性と企業の課題

 企業であるからには、企業価値を持続的に高めていくことが求められる。そのためにDX、ESG、SDGs、脱炭素、気候変動、人材戦略などに積極的に取り組んでいかなければならない。個々のテーマを深掘りしていくことは大事だが、企業価値はこれらのパーツを統合した先にある。

 一橋大学CFO教育研究センター長の伊藤邦雄氏は「これからの企業経営は、まさに総合格闘技である」と話す。個々の技(パーツ)を磨くことも必要である一方、それらの技を組み合わせた総合的な力を身につけていくことで、サステナビリティーな経営の実現に近づくという考え方だ。

 従来、こういった取り組みの成果は、主として財務・会計情報として開示されてきたが、今後は非財務・非会計情報として開示されることになる。こうした情報をもとに、投資家をはじめとするステークホルダーと対話を続けていくことが必要になってくる。

「サステナブル経営を工程で捉えると、工程1は取締役会を活性化して資本生産性を高め、投資家との対話を通じて企業価値を創造していく過程です。そして、ガバナンス改革が進むにつれて、ESG・SDGsの推進によってサステナブルな中長期経営を実践していこうという工程2へ推移します。これら2つのガバナンス改革の工程を含むインフラの基盤となるのが、まさに人的資本投資なのです」

 2020年9月に経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」では、人的資本と人的資本経営が強調されている。その理由を伊藤氏は「無形資産投資の競争で日本は劣後したからだ」と答える。

「米国に上場する主要500銘柄の市場価値に占める無形資産の割合は、非常に高くなってきています。今や、企業価値の大半を無形資産が占めているといえるでしょう。企業価値を高めるためには無形資産の価値を高めなければなりません。その無形資産の『ど真ん中』に位置するのが『人的資本』です。日本は、有形固定資産の割合が金融価値の占める割合よりも大きい実情があります。この日米の違いが、今、日本企業に重くのしかかってきているのです」

 同氏は人的資本経営が必要な理由を、サムスン電子元会長のイ・ゴンヒ氏と三洋電機元会長の井上敏氏の会話を例に挙げながら解説する。

「イ・ゴンヒ氏が井上氏に『三洋電機では人材にどのぐらいの金額を投資しているのか』と質問したそうです。そのとき井上氏は答えに窮してしまった。それを見たイ・ゴンヒ氏は『われわれは研究開発と同程度の金額を人的資産に投じている』と話したといいます。サムスンの繁栄はテクノロジーを磨いたことだけでなく、人的資本に膨大な金額を投資してきたからであることを物語るエピソードではないでしょうか」

 また、人的資本経営が注目を浴びる背景には、メンバーシップ型雇用の限界が露呈し始めているという課題もある。伊藤氏は「VUCAと呼ばれる時代において『仕事が人を育てる』という一辺倒な考え方で乗り切れるのかは疑問が残る」と話す。社員のやりがいやウェルビーイングと真剣に向き合っていく必要性は高まっている。こういった、ある意味で「パンドラの箱を開けよう」という狙いで議論された結果が「人材版伊藤レポート」に結びついたのだという。