反骨精神の伝統はどこに。どうしていじめに走ってしまったのか

「松本人志」報道から書き始めた関西「しゃべくり漫才」の源流探訪連載、多くの読者に読んでいただき、まずはお礼から始めたいと思います。

 私の論旨は、一人二人の個別芸人スキャンダルではなく、昭和中期にテレビ業界を立ち上げた世代の目からは言語道断としか言いようのない「いじめ芸」全般と、その周辺の不品行の根絶に向けて警鐘を鳴らすことにあります。

 今回はとりわけページビューの多寡などよりも、BPO=放送倫理・番組改善機構などで検討の際に、参考になる水準の史的事実、かつて私が慶應義塾大学「日本伝統音楽論」で講じた技芸の歴史的経緯から、問題の核心を記します。

永六輔さんのケースから

 テレビ草創期からの「良心」として、私を業界に引っ張ってくださった黛敏郎さんなどと並んで、昔は「放送のご意見番」として知られた人が何人かいました。

 そんなお一人に、永六輔さん(1933-2016)がおられました。差別問題などを含め、舞台裏で大きな仕事をなさいました。

 永さんや中村八大氏(1931-92)は、坂本九「上を向いて歩こう」を作ったコンビでもあります。

 テレビ放送前夜から、少し年長の黛敏郎(1929-97)、芥川也寸志(1925-89)、團伊玖磨(1924-2001)3氏の「三人の会」で、アシスタントを務めていた時期があったそうです。

 そんな長年の縁もあり、1997年春、黛さんが桜の季節に急逝した後、9月秋の改変期に私が番組に加わるまでの間は、永さんが「題名のない音楽会」の命脈を繋いだ時期がありました。

 この永さんが「いじめ芸」を心底嫌っておられました。

「ダウンタウン」が東京に進出したばかりの頃、永六輔さんが雑誌でコテンパンに批判したことがあったそうです。

 残念ながらネットで現物を確認することはできませんでしたが、これについて松本人志が「『なんやこのジジイ』って思った」という記事は確認できました。

 2016年、永さんが亡くなった折のことで、松本人志は「『いろいろ調べてみるとすごい人。すごいものをいっぱい残した』と思い直すようになった」そうです。

 実際、「夢であいましょう」「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」・・・番組と絡む歌だけ並べても、ユーモアとペーソス、希望に満ちた、今でも歌い継がれる仕事が並びます。

 さて、上のリンクの記事で「松本人志」は「仕事などで直接会って話すことはなかったが」、「いつかほめてもらおうと思ってがんばりましたけどね」とコメントしています。

 まあ、訃報の際のお追従かもしれませんが、あまりの極楽とんぼに、呆れました。

 永さんは「ダウンタウン」と共演は絶対にしなかったでしょう。スタジオですれ違うのも嫌がった可能性が高い。

 そもそも、前回紹介した、松本人志らに「チキチキ 野坂昭如たたいてさあ何点?」などと愚弄し切った、野坂さんと永さん、小沢昭一さんはユニット「中年御三家」を組むような生涯の盟友で、確信をもって「いじめ芸」は一切許容されなかったと思います。

 例えば、「中年御三家」が1974年に日本武道館で開かれた1万人コンサートでも、話が「戦争体験」「焼け跡闇市」などに及ぶや、永さんも野坂さんも小沢さんもボルテージ急上昇、骨の髄から反権力、平和擁護の権化のような方でした。

 その盟友、野坂昭如氏をあろうことが「叩いて」笑いものにし、日頃やっているのも「いじめ芸」・・・永さんが容認するなど、3回生まれ変わっても難しい気がします。

 そしてこの「不戦」の精神は、実は想像を絶する深さで、思わぬ芸の誕生と「へその緒」が、そして誕生後も「大動脈」で繋がっているのです。