連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

大奥の奥女中は生娘ばかりとは限らない。奉公に上がる前から、すでに男を知っている奥女中も珍しくはなかった

 徳川家斉は第8代将軍・吉宗の曾孫。家斉が15歳で第11代将軍に就任すると、養父・家治時代に権勢を振るった御用人・田沼意次を罷免。

 陸奥白河藩主で名君の誉れ高い松平定信は、若くして将軍になった家斉が成長するまでの代繋ぎとして老中首座・将軍輔佐に任命される。

 松平定信が主導した政策・寛政の改革では幕府財政の建て直しが図られた。しかし、定信の強引な手法に嫌気が差した家斉は、父・治済と協力して定信を罷免。寛政の改革は終熄した。

 松平定信がいなくなったことで、第8代将軍・吉宗以降「倹約」を続けてきた幕府は路線を変更、家斉は歴代将軍の中でも群を抜いた贅沢な生活を送るようになった。

 大奥は3000人近くの女性を抱え巨大化、浪費に浪費を繰り返したため、幕府の財政は一気に傾き、幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行する。

 地方では幕政に対する不満が各地で上がり、大坂では大塩平八郎の乱、越後では生田万の乱をはじめとする世直し型の様相を帯びる反乱が相次ぎ、幕藩体制崩壊の兆しが表面化する。

将軍の子女を迎えて得られる特別待遇

 徳川幕府15代将軍の中で意気天を衝くがごとく、精力旺盛な将軍で知られる家斉。

 武家の世界では、世継ぎが不在となればお家は断絶。そのため有力な武士は正妻のほかに側室を抱えるのが常識であった。

 そのなかでも家斉の子供と側室の数は桁外れといえる。

 家斉の側室は16人と記録にある。だが、実際には40人以上いたとされ、妻妾合わせて、男子28人と女子27人の55人の子を生ませている。

 家斉は大奥でひたすら子作りに励み、毎晩、側室と性的行為を営むと同時に、体力維持のため膃肭臍(オットセイ)のペニスを粉末にした、精力増強剤を服用していた。

 そのため周囲から陰で膃肭臍将軍と揶揄された。

 子が多ければ、全国各地の大名に養子、あるいは嫁がせることで、血縁関係により、強固な大名統制を図ることが可能となり、徳川家は安泰。

 家斉の55人の子のうち、成年まで存命したのは約半分の28人だが、その全員が親類である徳川御三家、御三卿をはじめ、全国の大名家に養子や嫁入りを果たした。