連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

戦国時代の政略結婚では、新郎新婦は式の当日に初めて顔を合わせることが多かった

 戦国時代、武家の家では娘の婚姻は、重要な意味を持っていた。

 そのため、武将らは多くの女を娶り、子供を産ませた。

 家を存続させるための政略結婚とは、国同士の同盟関係を強化し、戦争回避、侵略の推進、結婚相手の君主の継承権を得る、経済的支援などを目的とする。

 政略結婚で嫁いだ女性は、大事な人質でもあった。

 当時、恋愛結婚などは非常に稀で、武将は側室には好みの女性を選ぶことができたが、正室は結婚式の当日に初めて顔を合わすのが一般的だった。

 戦国の世は完全な男社会で、女性は政略の手段、子を産むための道具であり、女性が相手を選ぶ権利などなかった。

 当時、成人とみなされたのは第2次性徴の頃で、男子は精巣が大きくなり生殖器が成熟する11歳頃。女子は乳房が発育し始め初潮を迎えた10歳頃である。

 男子は元服を迎えると、大人として戦の初陣を飾り、妻を迎える準備を整えた。

 一方、女子は成人した証として、初めて裳を着せる儀式・裳着(もぎ)が10代の前半頃に行われた。

 当時、男女ともに幼くして成人と認められたため結婚は早く、武田信玄と伊達政宗は13歳で、織田信長と徳川家康は15歳で正室を迎えている。

 それに呼応して女性の出産も早かった。前田利家に嫁いだマツ(芳春院)は、11歳11か月で長女・幸姫を出産している。