阪神優勝に救われたアサヒビール(写真:ロイター/アフロ)

(*)本稿は『日本のビールは世界一うまい!酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を抜粋・再編集したものです。

◎第1回「Z世代が知らない昭和のビール大戦争、シェア6割のキリンはなぜ陥落したか」から読む

 1963年、ビール事業に参入したサントリーは、当初は厳しい現実にぶち当たる。圧倒的に強い洋酒ビジネスとは、まるで違っていたのである。

『日々に新たに――サントリー百年史』(サントリー株式会社編)には、

「夜、バーへ売り込みにゆき、人手不足の折からカウンター内に入り、コップなどを洗う手伝いをする者、枚挙にいとまなし」
「クリスマス前、新宿にマンモスバー開店。担当者、店の前でオーバーも着ず通行人にビラ配り。開店の案内に声をからす」(ビール営業マンの声から)

 ウイスキーでの甘い商売に絶縁状を叩きつけて進出したビール事業だが、現実は厳しかった。市場がすんなりと受け入れてくれないのだ。酒販店への販売ルートは開いてはいたが、実際にはサントリービールを扱ってくれた酒販店は少なく、開拓には苦労した。

 洋酒営業マンが得意先に行くと、時には食事までご馳走になるが、ビール営業マンだとお茶も出ない、という対応だった。ビラ配りにコップ洗いの悪戦苦闘には、何とか店でサントリービールを扱ってもらおうとする営業マンの必死の思いが込められている

 ──とある。

 アサヒ社長だった山本爲三郎により、アサヒの特約店網を、サントリーは使うことができた。63年4月のビール参入時(発売時)には、東京と大阪に中途採用者を含め合計約100人のビール営業部が設置された。

 だが、予想しなかった苦戦に直面したため同年6月には、営業以外のセクションから約20人が営業現場に投入される。通称「新撰組」と呼ばれたが、「連日、夜半過ぎまで、手には地図、名刺一枚を頼りに、業務店への飛び込み営業を展開した。みな寝食を忘れて頑張った」(前掲書)。

 4カ月後、新撰組のメンバーはビール営業に組み入れられたそうだ。